第241話「よろしくカノジョ、よろしくカレシ」

陽菜が恐る恐る病室へ行くと、そこは豪華な個室になっており、ベッドの上には黒縁の眼鏡をかけた翔が檜佐木と会話していた。



「あ、陽菜」



翔は陽菜の姿を認めると、少し驚いた顔をしたが、すぐに細いチューブの刺さった両手を広げた。

陽菜は走り出したい気持ちを我慢して、ゆっくり近付いて、彼の胸に身体を預けた。


翔の腕が陽菜を包み込む。


彼からは消毒液の匂いがした。

心臓の鼓動を感じる。


陽菜は瞼を閉じて実感した。

確かにここに彼は存在していると。



「ごめんな。怖い思いさせて。目が真っ赤だ…」



「ううん。いいの。それよりずっと…ずっと会いたかった」



「……随分素直だな。本当に陽菜なのか?」



翔の目が細められる。

眼鏡越しだが、彼の裸眼は少しブラウンが混じった紅茶のような色合いのようだ。



「本物か試してみて…」



「いや。ちょっ…ん?陽菜、どうかしたのか?」




陽菜は大胆にも自分から唇を翔に近づけようとする。



「あー、あの。俺もいるんだからね?お嬢さん」



「あっ。もしかして檜佐木先生?全然気づきませんでした」



するとわざとらしい咳払いをして檜佐木が前に出てきた。



「あのねぇ、俺はトロエーの全部の編曲してる言わばトロエーの大恩人なんだよ?」



「自分で言うなよ。ダセェ奴だな。別に大した事ねーじゃん。僕だって今新人二人抱えてるし」



「そこっ、煩い!病人は黙ってろ」



「病人じゃなくて、怪我人だよ」



何やら不思議なやり取りが始まってしまった。


陽菜は思わず笑い出してしまう。



「ま。邪魔しちゃ悪いか。外で待ってるわ」




「はっ?何で行くんだよ。ここに居ろよ」




すると翔が妙に焦った顔で檜佐木のシャツを掴んだ。



「居られるかよ!そんな甘い雰囲気ダダ漏れで。空気読んだんだよ。後はお好きにどうぞ」



「いやいや二人きりヤバいって、恥ずかしい。超無理。腹の傷が開くって」



「レンレン、男はそういうのを乗り越えて真の漢になるんだよ。ほら、これはお兄さんからの慈悲だ」



そう言って翔の手に檜佐木は何かを握らせると、陽菜の横をすり抜けて病室を出て行った。



「……慈悲って何だよ………って、バカかあいつ!」



「何?どうかしたの」



陽菜が手元を覗き込もうとすると、翔はそれを素早く枕元に滑り込ませた。



「お前は見なくていいものだ」



「……?」




         ☆☆☆



「蓮が無事で良かった。あのまま血が止まらなくなって死んじゃうかと思った」



「怖かっただろ?僕も痛みよりも驚きの方がデカかったし。あれって本人の気合いで止まるもんじゃないな。不味ったとか考えてるうちに意識持ってかれるし」



「もう……蓮は。とにかく怖かったよ。すごく」



「あの男な。お前には気づかれないようにしてたけど、ずっとお前に付き纏っていたんだ」



「え、嘘っ」



翔は言いにくそうに話し出す。



「何度注意してもこっちの話なんて聞かねえし、その内調子こいてエスカレートしていってな。いつ暴走するかわからなかったんだ。で、秋海棠一十からも言われてな。お前を守ってくれって。そうじゃないとお前を送り出せないって」



「……一十先生が?」



「あの人、お前が狙われている事は知ってたよ。だから守ってくれと。僕もさぁ、古武術やってきたからそれなりに何とかなると思ってたけど、刃物はヤバかったわ。あれ、マジで死ぬわ」



「蓮っ…」



翔は愛おしそうに陽菜の頭を撫でる。



「ま。お前が無事で良かったわ。僕は正直あの時で終わったと思ったけど、運良くまた戻って来られた。後はおまけのような人生だと思って身軽に生きれそうだ」



「………」



       

        ☆☆☆





陽菜は蓮のベッドに腰掛け、少しだけ彼に寄りかかる。

布団の中で手も繋いだ。

少しでも彼に触れていたかった。




「蓮、あの時私の事好きだって言ったよね?」




「あー。あれな。あれが一番恥ずかしい。過去イチ恥ずかしい。もう終わりだと思ったから言ったのに、まさかの出戻りでマジ恥ずかしい」



翔は恥ずかしいを連呼して頭を振った。



「えー、じゃああの愛してるは撤回するの?」



「それはやだ。命張ってようやく言えたんだからな。じゃなきゃ一生言えなかった……だから余計に恥ずかしいんだよ。今、顔見ないでくれる?」



しかし陽菜は翔から目を離さない。

途端に握った彼の手が熱くなる。



「じゃあいいじゃない。それで」



「……あぁ。つかめちゃくちゃ照れるんだけど、もう勘弁してくんない?こういうアオハルみたいなの苦手なんだよ」



「蓮って、何かウブだよね。ピュアっていうか。百戦錬磨な恋するアイドルなのに」



すると翔は妙にジトっとした目で陽菜を見てきた。



「な…何かな?」



「何度も言おうと思ってたけどな、僕そんなに恋愛経験持ってないから。初キスも高三の時、好きでもない女にイタズラの延長でされたし、初めてセックスしたのは二十五の時だった。もうさ本当にお前が思ってるようなリア充なアイドルなんかじゃないし、色々拗らせちゃってるイタいヤツなんだよ」



陽菜はポカンとした顔で翔を見つめている。



「何、幻滅したのか?思ってたヤツと違うって」



「ううん。違うの。ますます好きだなって思っただけ」



「は?」



陽菜は翔の肩に頭を寄せた。



「…………私、処女だよ」



「ふーん、そうか……って、はっ?何ぞ?お前アイドルがそんな…は、え?」



「落ち着いてよ。それ、使わないの?」




陽菜の視線は翔の枕元に注がれていた。

翔の顔がロボットのようにぎこちない動きをした。




「ひょっとして見た?」



「うん。チラッと」



「……………」




「その…何に使うかわかって言ってるか?」




「うん。大体は」




「……………」




嫌な沈黙が流れた。




「……いや、しないから。ここ病院だし。あんな激しい運動したら腹の傷がまた開くし」




「そうなの?」

 



「そうなの!大体漫画じゃねーんだから病室なんかでするか!何?今の若いヤツって皆そんな感じなの?僕の認識不足?……それにそういう事は…その……あまり言うもんじゃない……」



翔は顔を赤くしながらも少し嬉しそうだ。



「もしかして人気絶頂アイドルが彼女で、しかも処女…って事に喜びを噛み締めてるとか?」



「なぁ……お前、少し黙れよ。はぁ。全て台無しだよ」



二人はしばらくの間、何も話さずただ手を握ったまま過ごした。




「…あのさ…付き合う?」



「うん。付き合う」



「了……よろしく。カノジョ」



「こちらこそよろしく。カレシ」



演技でもない、二人はその日、初めてのキスを交わした。



「………ん…ふぁっ…ヤバ。何か変な声出た」



翔が恥ずかしそうに陽菜から離れる。



「……えー、それはちょっと好きな人補正無理かも。普通にキモい」



「キモい言うな!」



その後、翔と陽菜の事務所から、二人が交際しているという事実を認める発表が正式にあった。

















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