第238話
「アイドルタレントの支倉翔(27)が暴漢に襲われ重体。人気アイドルグループのメンバーを庇っての怪我との一報も」
そのショッキングなニュースは一時、メディアを独占し、瞬く間に日本中に駆け巡った。
テレビのどこをかけてもそのニュースばかり。
犯人の男はその場で現行犯逮捕され、現在は事情聴取待ちとなっている。
元はその男は所謂エリート官僚であった事がわかり、三年前に妻と別れてから心身を喪失し、その穴を埋めたのがトロピカルエースの喜多浦陽菜だったという。
それからずっと男は陽菜に執着するようになり、執拗に追い回していた。
この報を受け、タレントを護る為の新しい動きが専門家達の間で見直される事が発表された。
以前交差点で起きた永瀬みなみの事件もそうだが、このタレントへの付き纏い、及びストーカー行為は大きな社会問題となっていた。
この事件は闇が深いと、近々男に精神鑑定がかけられる予定だそうだ。
それと同時に報道では実名が伏せられていた、翔が庇ったアイドルは誰なのかという話題に移り、当日生放送のレギュラーを急病との事で急遽降板した喜多浦陽菜の名前もネット上に挙げられた。
そこから翔と陽菜の熱愛報道にまで話題は広がり、最早収拾がつかない状況だった。
「嘘…だよね。翔ちゃん……翔ちゃんが…」
みなみは膝から崩れ落ち、真っ青な顔で夕陽に縋りついた。
夕陽は思い出す。
みなみが家に来ると約束した日、暴漢に襲われたというニュースを見て、何も出来ずにテレビの前でただ呆然としていたあの恐怖の一日を。
何度も放送される事件現場に残る血痕の生々しさを夕陽は今も忘れられない。
もうあんな思いは二度としたくはない。
「みなみ……」
夕陽はみなみの存在を確かめるように肩を抱き寄せると、不安気に空を見上げた。
今頃陽菜はどうしているのかと。
☆☆☆
ここは都内にある秋海棠総合医院。
数々の著名人が利用する秘匿性の高い病院で、秋海棠一十の実家でもある。
翔はそこに搬送された。
そしてすぐに緊急手術が始まった。
肺に血液が溜まった事で、一時は危険な状態に陥り、その度に何度も医師たちが手術室を出入りしていく。
陽菜はベンチに座りながら、祈るようにそこから動かずに見守ってきた。
すると向こうの廊下からこちらへ急ぐような足音が聞こえてきた。
秘書を伴って、翔の父親がやって来たのだ。
その後ろから恐らく彼の母親と妹らしき女性もついて来た。
陽菜はゆっくりと立ち上がり、彼らに頭を下げる。
その姿は憔悴しており、衣服は翔の血に染まって事件の無惨さを物語っていた。
その姿を見た父親の貴司は一瞬絶句したように顔を青ざめさせると、陽菜に丁寧な所作で深く一礼し、医師の元へと走った。
「喜多浦…陽菜さんですよね?」
そこに後から来た母親が声をかけてきた。
控えめな化粧をしているが、美人で清楚な女性だった。
「はい…そうです」
「やっぱりそうなのね。私は神崎蓮の母で静華と申します。この度は息子が大変ご迷惑をお掛けしました」
「いいえ、そんな。蓮…さんは私を庇ってこんな事……」
陽菜が思わずそう言い募ろうとした瞬間だった。
ふわりと優しい香りが鼻先を掠めたと思ったら静華に抱きしめられていた。
「自分を責めてはいけません。蓮さんだってきっとそれは望んでませんよ。さぁ、あちらで貴女の身なりを整えましょう?着替えを用意しているの」
そう言って静華はハンカチで陽菜の頬を拭った。
血と涙に汚れた頬には、まだ翔が触れた指の痕が残っていた。
静華は後ろで紙袋を持って控えている少女を振り返る。
「詩音さん。彼女の着替えを手伝ってあげてね。あ、この子は詩音といって、蓮さんの妹なの」
静華に言われて前へ出て来たのは二十歳前後の少女だ。
翔によく似ているが、翔のような儚さや甘さはなく、生命力に満ちたクールでスッキリした顔立ちをしている。
「初めまして。詩音です。トロピカルエースの喜多浦陽菜さんですよね。私も大好きなグループで応援してました。陽菜さんとは出来ればもっと別な形でお会いしたかったです」
「ごめんなさい、私っ、貴方たちの大切な家族を…」
「あ、そんな顔しないでください。陽菜さんを責めているわけじゃないんです。ただ、私達は兄が貴女を好いていた事は知っていました。だからそっと見守るつもりでした。いつか私達にも紹介してくれると。あの日も兄が家に来た日、兄は父に貴女と交際したいと願い出ていたんです」
「あっ……」
詩音の言葉に陽菜はハッとする。
以前、翔が右頬に酷い痣を作って、それを隠そうとしていた事が蘇った。
翔は柱にぶつけた等と適当に誤魔化していたが、あれにそんな事が隠されていたとは。
詩音は陽菜の肩に触れた。
「兄はきっと大丈夫です。前もこんな事がありましたが、ちゃんと戻って来ました。さぁ、今は陽菜さんを綺麗にしましょう?兄が戻った時、綺麗な陽菜さんを見せてあげたいですし」
「……でも」
陽菜は後ろ髪引かれる思いで手術室を見る。
その扉の前では何やら深刻な顔で担当医と話している貴司の姿が見えた。
「何かあればすぐに知らせますわ。さぁ、行っください。中にお風呂もありますから少し身体を温めてね。可哀想に雨に降られて随分体が冷えているわ」
静華に諭すように言われ、陽菜は今更のように湿った衣服に震えを感じた。
言われるまで自分が震えている事に気づかなかった。
「はい。わかりました」
陽菜はゆっくりと詩音に支えられ、歩き出す。
今夜は長い夜になりそうだ。
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