第237話「キミが好きだ」

机の引き出しを開けると、そこにはまだ処分してなかった未開封の煙草が数箱あった。


それを見た翔はやや自嘲的に笑った。



「どうかしたんですか。あ。煙草。もう止めたんですよね?」



ボーカルブースから出てきた陽菜はそれを除き込んでくる。



「止めたよ。だけどこんなにあっさり止められるなんて思ってなかった。今はコイツがなくても落ち着いてんだ」



翔は煙草の箱をしみじみと見つめている。

最初に煙草に手を出した時、まだ自分は十代だった。


親への当てつけで吸い始めた煙草。

最近までずっと手放せなかった翔の安定剤のようなものだった。


今はそれが無くても不安にならないし、明瞭さを保っていられる。


 


「じゃあ、もうコレは必要ありませんね?」



「あぁ。全部処分して構わないよ」




翔は隣でその煙草を処分しようとしている陽菜を見て口元を緩めた。


彼女の存在が自分を安定させているのだろう。

思えばこんなに心が穏やかなのは、生まれて初めてかもしれない。


あの牢獄にいたような十代までの自分。そこから這い出し、自分の力だけで生きる決意をした二十代前半の自分。


いつも何かに追いかけられているような人生だった。


今はそれがない。

心は透明なまでに澄んでいて、満たされている。

こんな気持ちは初めてだった。


だから自分を救ってくれた彼女に何かしてあげたい。


翔は密かに決意していた。


この少女の為に生きたいと。

この少女の為に命を使いたい。


きっと死ぬ時はこの少女の為に死ぬのだと。



自分が最も尊いと思えるものを彼女に捧げたい。


そう。たった一つしかないものを。


ずっと親の期待に応える事でしか自分の存在価値を見出せなかった孤独な「少年」には、それしか彼女の想いに見合うものを見いだせなかった。



        ☆☆☆




その日は朝から雨が降っていた。

雨は一日中、ずっと降り止まない。


陽菜は傘も差さず、小走りで次のスタジオへ向かっている。

今日は朝からレコーディングがあり、忙しい日だった。


最近のトロピカルエースはそれぞれ個別の仕事も増え、分刻みのスケジュールだ。


マネージャーの数も増えたが、中々細かいところまで手が届いていないのが痛い現状だ。



「陽菜っ、先に行っててくれない?次は生番組だから急いで」



「わかりました!」



後ろから内藤が慌てた声で陽菜に指示をする。

この後、隣のスタジオで生番組の撮影があるのだ。


その時だった。




「陽菜ちゃん!」




突然男に声をかけらられ、陽菜は反射的に振り返る。


そこには以前、陽菜に付き纏っていた付き人気取りの男が立っていた。


陽菜は失念していた。

最近姿を見かけなくなったので、諦めたと思っていた。


男は常軌を逸した顔つきでフラフラと陽菜の方へ歩いて来る。



「何で……こ…ないで」



弱々しい声が出る。



「陽菜ちゃん、何で俺の気持ちがわからないの?陽菜ちゃんには俺が必要なんだよ?それなのに、変な男に邪魔ばかりされて最近は近づけやしない……こんなに、こんなに、こんなにキミを想っているのにぃぃ」



男の口から呪詛と涎が滴り落ち、降り頻る雨に洗い流されていく。

陽菜にはそれが恐怖でしかなかった。


しかし変な男とは誰の事なのだろう。

そんな事を考えていると、男がリュックから何か細長い物を取り出した。




「陽菜ちゃん……もう全部終わりにしようよ。一緒に死んで異世界に行こうよ?そして今世の記憶を持ったまま、向こうで結ばれよう?」



そう言って男が細長い物を包んでいた布を取り去った。



「ひっ……何なの?何でこんな………」




それを見た陽菜の顔が大きく歪む。

それは小型の果物ナイフだった。




「大丈夫だよ。痛いのは一瞬だよ。すぐに俺たち一緒に「向こう」に行けるから!」



「やだっ!助けてっ、誰かぁっ!」




力任せの初撃を何とか交わし、倒れ込むように陽菜は地面に転がる。

男はそれを見て舌打ちし、再びナイフを振り下ろす。


今度は避けられない。

陽菜はきつく目を閉じた。



(ごめんなさい、皆。蓮……。出来ればもう一度会いたかった)



ドンっと鈍い衝撃音が耳に響く。

しかし皮膚を突き破る衝撃は来なかった。


それと同時に襲いかかってきた男がとんでもない高さで投げ飛ばされていくのがスローモーションのように見えた。


目の前には翔が肩で荒い息を吐きながら立っていた。



「れ……蓮?蓮なの?」



すると彼がゆっくりとその場にしゃがみ込む。



「大丈夫だったか?怪我は…」



「ないっ!ないよ。全然。それより蓮は、あっ…」



そこで陽菜は気付く。

彼の腹部が真っ赤に染まっているのを。



「はぁ………コレは…ヤバいやつか…も」



「さっきので刺されたの?どうしよう血が……血が止まらないよ」



陽菜は半狂乱になって傷口をハンカチでおさえようとする。

しかしハンカチはすぐに血を吸って赤く染まり、新たな血が溢れてくる。

すると陽菜の濡れた頬に冷たい手が伸ばされる。



「泣くな。いいか、これが最後かもしれないから言っておくわ」



「えっ?」



翔は苦しい息の下、陽菜を力強く抱き寄せた。



「好きだ」



「………」




「お前が好きだ。陽菜」




再び陽菜の瞳から涙が溢れ出す。




「最初から決めていた。…絶対に守るって……あの先生とも約束してた。僕はずっと勉強ばかりしてきて、こういう事は全然わからないから……こうする事でしか…お前に想いを返せない」



ゴホッっと翔が咳き込むと、血の塊が出てきた。



「もうしゃべらないでっ!」




しかし翔は首を振る。




「最後だし、もう心残りがないよう言っておく。ずっと誰にも言った事がなかった言葉をお前だけに言うよ………」




(愛してる)




その言葉を最後に翔の意識は途絶えた。




……陽菜、僕が救ったんじゃない、君が救ってくれたんだ……




「蓮っ!蓮っ」




その顔は満たされたような笑みが浮かんでいる。


本当に満足だった。

彼女に想いを伝える事が出来て。

彼女の命を救う事が出来て。


父親に命を返すつもりで薬を飲んだあの日も確かこんな気持ちだった。



翔の血に塗れ、陽菜はただ彼を抱きしめて泣き続ける。


救急車のサイレンと雨音がいつまでも鳴り止まなかった。


















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