第235話「生きる自由、死ぬ自由も与えられない僕は…」
「何をやっているんだお前はっ!こんなくだらない事で神崎の家名を汚してっ」
床に小さな箱が叩きつけられる。
バラバラと転がるのは数本の煙草だった。
蓮は学校の屋上で喫煙しているところを教師に発見され、そのまま停学になってしまった。
その後は大変だった。
親が学校へ呼ばれた為、その話題で周囲は持ちきりになってしまった。
「…………………」
蓮はただ悔しそうな顔で俯いている。
その頬は赤く腫れ上がり、唇からは血が一筋流れていた。
「恥を知りなさい。一体何の不満があってこんな真似をする」
「………すみませんでした」
蓮は項垂れ、肩で息をする父を見る勇気もなく、ただ詫びるだけしか出来なかった。
やがて父は落ち着いたのか、ため息を一つ吐いた。
「もう下がりなさい。後の事は私が処理をする。松島、蓮を一歩も家から出すなよ」
「はい」
後ろに控えていた黒ずくめの男、松島は軽く頭を下げる。
「さぁ、蓮さん。お部屋へ参りましょう」
「…………」
部屋へ戻ると、蓮はベッドに倒れ込んだ。
頬はズキズキ痛むし、口の中は血の味で気持ちが悪い。
「この部屋はまるで独房だな……。生きる事も死ぬ事も僕の自由にならない」
ベッドに横たわり、蓮はただ黙って天井を眺めていた。
煙草は父親への抵抗のようなものだった。
しかし煮詰まった時に吸うと、気持ちがスッキリしてまた勉強に集中出来た。
そこから徐々に止められなくなっていた。
まさかこんな形で父親の知るところとなるとは思わなかったが。
神崎蓮、高校一年の秋の事だった。
☆☆☆
「ねぇ、神崎はさぁ勉強ばっかしてっけど、それで人生楽しいワケ?」
高校三年の夏。
いよいよ家に居場所がなくなった蓮は、塾がない日は遅くまで教室でひたすら勉強に励むようになっていた。
校庭を見ると、夕焼けに染まったグラウンドを部活を終えたカップル達が楽しげに歩いている。
蓮に声を掛けてきたのは同じクラスでありながら一度も話した事のない少女だった。
だが名前は知っている。
織部夜空。
変わった名前だったし、いつも話題の中心にいるくらいクラスでも目立っていたので、顔と名前くらいは知っていた。
ロングの髪を緩く巻いて制服を少し着崩し、薄くメイクはしてはいるが、決してギャルではない。
別段美人ではないが、いつも人の中心にいる。
それが夜空だ。
「別に……。そこ手、邪魔」
「あ、ゴメン。でもさ、神崎って眼鏡外したら絶対イケメンじゃん?ちょっとくらいハメ外しちゃってもいいんじゃね?」
「馬鹿馬鹿しい。興味ないんだ…って何するっ」
夜空を無視して勉強を続けた蓮の視界が急にぼやける。
彼女に眼鏡を取られたのだ。
「ほら、やっぱりイケメンだ!つか神崎ってよく見たらお肌綺麗だね。赤ちゃんみたい。睫毛も長くて唇の形も綺麗…吸い込まれそう」
夜空がうっとりした顔でこちらを見つめてくる。
彼女の大きな瞳から目が離せなくなりそうになる。
蓮に隙が生まれた。
その一瞬を夜空は見逃さなかった。
「スキありっ!」
「!」
唇に柔らかな感触があった。
それはまるで時間が止まったかのような一瞬だった。
まだ校庭からは生徒たちの喧騒が聞こえ、夕陽が今にも沈もうとしている。
彼女の髪も陽に透けて茶色に見えるくらい距離が近い。
やがて夜空は蓮から唇を離した。
離れた途端、お互いの唇から透明な糸が溢れ、夕陽にキラキラ光って見えた。
その生々しさに蓮は一気に羞恥で顔から火が出そうになる。
それと同時に父親の顔が脳裏に浮かんだ。
蓮は乱暴に唇を拭って立ち上がる。
そして何度も何度もゴシゴシと摩った。
「……からかわないでくれ!何でこんな事をするんだ」
蓮は悲鳴のような声で夜空を詰る。
しかし夜空は上唇を舐め、薄っすら笑みを浮かべていた。
「神崎が中途半端で苦しそうだから」
そう言って夜空が何かを蓮の前にばら撒く。
蓮の顔色が変わった。
それは蓮の喫煙道具だった。
蓮はそれを必死な顔で掴み、ポケットへ入れた。
そしてまだ夜空の手にあった眼鏡を取り上げると、教科書類を乱暴に鞄に突っ込み、教室を飛び出す。
走る最中もゴシゴシと唇を拭う。
悔しかった。
とにかく悔しかった。
あんな女に自分の何がわかるのかと。
神崎蓮、高校三年生。好きでもない女とファーストキスをした十八歳の夏だった。
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