第222話

夕闇が迫る雨上がりの空の下。


歩道橋の上には二人の男女が立っていた。



「色々回り道ばかりして、今まで一杯待たせてごめんね。宗馬、大好き」



琴音が溢れる涙を堪えながら相馬を見上げ、告白する。


その後、宗馬は優しく琴音を抱き寄せて「お帰り、琴音」と言ってキスをする。


台本にはそうあった。

これは原作版の小説でも一番人気のあるシーンだ。


親を亡くし、兄と二人きりで過ごしてきた琴音に突然父の遺言で舞い込んだ結婚話。


富豪のイケメン三人に言い寄られ、揺れながらも最後には三人の中からでなく、幼馴染の彼氏を選ぶという女子中高生向けのライトノベルが原作となっている。




「……………」




切実な告白の後、やけに長い沈黙が二人の間に降りた。





「……………?」





陽菜は心の中で首を傾げる。

自分の台詞の後に何故か翔の方の台詞が出てこない。


不審に思い、陽菜が翔の顔を見ると、彼は顔を真っ赤にして俯いていた。




「はい、カットー!どうしたの?支倉くんも何か今日はちょっとおかしいよね」



「スミマセン、台詞飛んじゃいました。喜多浦さんもゴメンね」



「あっ、全然大丈夫ですよ」



翔はとにかく仕事に関しては完璧主義で、業界内でも極めてNGが少ないという話が有名だ。

だからなのか、周りのスタッフ達もざわついている。


監督がすぐにドローンを回収するよう指示し、撮影は中断される。

そして各マネージャーが二人に台本を持って駆け寄る。

その間にメイクさんが雨で崩れたメイクを修正していく。




(……あの顔からの「大好き」破壊力あり過ぎだろ)




翔は何かブツブツ言いながらも、周囲に詫びを入れてまた元の位置へ戻っていく。




「じゃあ、喜多浦ちゃん。もう一回頭からでいいかな」



「了解でーす。支倉さん。ドンマイです」



「………」




         ☆☆☆





こうして二回目の告白の後、ようやくお互い冷静さを取り戻した二人は演技に集中した。




「宗馬、大好き」



「お帰り、琴音」




抱き寄せられ、今度は自然にそっと唇が重なる。

想像していたより、温かく柔らかな感触に陽菜の肩が震えた。


それと同時に全身が幸せな気持ちで満たされていく。


その瞬間、陽菜は悟った。

私はこの人が「好き」なのだと。



晴之は言っていた。

好きな人とキスすると、胸がドキドキして幸せな気持ちになると。


今、陽菜はこれ以上ないくらい幸せでドキドキしている。

演技でしてきた誰とのキスとも違う。


そして決定的なのは、たった一度だけ交わした一十とのキスとも違っていた事だ。


彼とのキスには安心感があった。

触れている箇所から傷が癒やされていくような優しいキス。


まるで生まれたての赤ん坊に母親がするようなキスだった。


だけど翔とのキスは全然落ち着かない。

心臓が今にも身体を突き破って暴れ出してしまいそうな感覚だ。


陽菜はしばらくの間、放心したようにただ翔を見つめていた。


その内、監督が満足そうにOKサインを出し、そのシーンは終わった。




「おい、大丈夫か?」



「はっ…え?」




あまりにぼんやりしていたのか、心配そうな顔で翔が耳元に囁いてきた。


我に返った陽菜は素早く翔から離れた。




「あ、だっ…大丈夫です!お疲れさまでした」



陽菜はそのまま逃げるようにマネージャーの側まで駆けて行く。




「………参ったな。あれで演技になってたかな」




後に残された翔は去っていく彼女の背を見ながら頭を掻いた。

彼もまた高鳴る胸を持て余すように戸惑っていた事を陽菜は知らなかった。



その後も撮影は順調に進み、その日は無事に終了した。



帰りの車の中。

陽菜は朝とは打って変わってご機嫌な様子で鼻歌を歌っている。



「陽菜、どうしたの。今日は本当に上がったり下がったりだね」



タブレットで明日の天気とスケジュールの確認をしていた内藤がそんな陽菜を訝る。



「そっかな?べ…別に普通ですよ」



「いやいや、今日の陽菜は確かに変だったよ。それに支倉くんも変といえば変だったね。完璧主義でNGなんて滅多に出さない彼が、台詞飛んじゃうとか」



「俳優だって人間ですからね。本番になってもメンタルバランスが整わない事なんて結構ありますよ」



「へぇ、やけに支倉くんの肩を持つようになったね。確か最初は悪口ばかり言ってなかったっけ?」



すると陽菜が内藤を軽く睨む。




「そんな事ないです!アイドルとして俳優として尊敬してるんです」



内藤は「そうかい」と半分からかうような顔で笑いながら、再び自分の仕事に没頭した。


やがて車は所属事務所へと入っていく

ただその様子を暗い目で見つめる者がいた事も知らずに。















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