第218話

都内地下にある小さなバーは、今日も常連客達で盛り上がっていた。


その奥にあるカウンターには、黒いハットに黒いシャツとパンツという黒ずくめの小柄な背中の持ち主がため息を吐きながらハイボールを煽っている。


支倉翔だ。



「はー……」



「随分とお疲れのご様子じゃん。レンレン」



その隣で店内に流れるジャズを楽しみながら生ビールを傾ける翔と同世代の男性は、気楽な様子で笑いかける。


彼は翔のミュージシャン仲間の友人で、檜佐木圭介という。


トロピカルエースの楽曲も何曲か提供している、所謂売れっ子作曲家だ。



「別に何も……ねーし」



「またそんな事言って、何か俺に聞いて欲しい事でもあるんでしょ?話してみなよ」



「……秋海棠一十ってどんなヤツ?」



「一十先生?「神」だね。それに尽きるわ」



檜佐木は拳を握りしめてそう豪語した。



「あー、お前はあの一門から出てたんだっけ。なら納得だ」



翔はさもつまらなそうにため息を吐く。

檜佐木は秋海棠一十の弟子のような存在で、ずっと彼がユニット活動をしていた頃、ローディーを経て正式なサポートメンバーになっている。


現在はそこから独立し、トロピカルエースの楽曲のプロデュースや歌唱指導も行なっている。


なので一十を心酔している彼の口からはあまり有用な話題はないだろう。

そんな事を考えながら、翔はピザを口へ運ぶ。



「一十先生はさぁ、とにかく凄いアーティストだよ。今はポップでキャッチーな女の子の歌しか作ってないけど、「on time」の時のウェッティーな曲調のバラードはマジ涙モンだよ?」



「へぇ…僕、あまり「on time」時代の曲、聴いてないんだよな」



「勿体無いなぁ。今からでも遅くないから履修しとくべきだよ。レンレンだって一十先生に依頼されてトロエーのガイドボーカルとか仮歌入れてんじゃん」



「あれは直接本人とは会って話したわけじゃいし。全部メールのやり取りだったんだよ」



やはり一十は業界では凄い人物だという事は変わらないらしい。

翔には何故かそれが何となく気に入らない。

考えるとモヤモヤして落ち着かない気分にさせた。



「なぁ、プロデューサーとアイドルってデキてるもんなの?」



「はぁ?何だよそれ。まさか俺を疑ってんの?俺はプロデュースしてる子をつまみ食いするような男じゃないよ」



檜佐木は自分が疑われたと思ったようで、心外だと弁明しだした。



「いや、別に檜佐木の事じゃないよ。そういう事ってよくあるのかって話」



「あー良かった。俺はアイドルと付き合う気はさらさらないからビジネスと割り切ってるけど、中にはいるんじゃないの?先生と生徒の禁断の関係に近いし。あ、もしかしてレンレン、一十先生を疑ってんの?」



「いや…そんな事はない……と思う」



内心、これ以上ないくらいバッチリ疑っているのだが、そこは敢えて口にしない。



「一十先生はさ、面倒見も良くて慕ってる人間も多いけど、恋愛にはまるで興味ないんだよね。人への執着が薄いっつーか。だからプロデュースしてるアイドルと熱愛なんてないんじゃないかな〜」



そう言って檜佐木はグラスを空にした。

そしてすぐに次をオーダーする。



「ふーん…。そっか。じゃあ別にトロピカルエースのメンバーとどうこうってのはないのか」



「それはマジ大丈夫だと思うよ。何、レンレンまさか、トロピカルエース狙ってんの?誰よ誰」


「何でそうなるんだよ。いねーよ」



一瞬、脳裏に陽菜の顔が浮かんだ。

途端に翔は背中に妙な汗が噴き出すのを感じた。



「トロエー、最近凄いよな。若手の芸人しかやらないような仕事でも全力で受けるから、結構使い勝手がいいらしくてさ、まさに引っ張りだこって感じじゃん」



「それもうアイドルじゃないだろう」



翔はバラエティー番組にあまり出たがらない。

元々台本があるものは何とかこなせるが、ほぼフリートークのバラエティー番組は自信がなかった。


昔からあまり口の上手い方ではないし、下手するとこの本性が出てしまう危険もある。


だからトロピカルエースの事は密かに翔も凄いと思っていた。



「で。レンレンの狙ってる子は誰?そういえば最近一人結婚したよね。あ、更紗だ。確か相手は演歌歌手と。あれは驚いたよ」



檜佐木は一人でうんうん頷いている。

そのニュースは翔でも知っていた。

さらさの相手の道明寺限竜は翔のボイトレの生徒だからだ。



「もしかして乙女乃怜かな?よっ、レンレンのオッパイ星人め♡」



「違うし!全然違う。あれは僕のタイプとは真逆だ。僕は喜多浦……」



ついそこまで言った翔の動きが固まった。

檜佐木は何故か神妙な顔つきになっている。



「うーわー。陽菜だったのか。あれは無理ゲーじゃね?」



「何でだよ」



檜佐木の予想外の反応に、つい翔も食いついてしまう。



「いや、だっていくらお前も人気アイドルだとしても、陽菜はそれ以上。つまりトロエーのエース的存在だよ?五人の中でも一番人気の。アイドルやる前からファンも多かったし、その分ガードも固いよ?」



「………それ、マジなん?」



「うん。そんな子と熱愛なんて事になったら凄い事になっちゃうよ。やっかみや妬みでネットとか開けなくなりそうだ。まぁ、それはそれで面白そうだけど♡」



「檜佐木…てめぇ」



翔は戸惑っていた。

あの日、陽菜と過ごしたあの一日がとても楽しくて、ずっとあの笑顔が忘れられない事に。


しかし、それと同時に秋海棠一十の存在が翔の心に重くのしかかっていた。
















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