第206話
「あ〜ぁ。リーダーがまさかのスピード婚しちゃうし、何だかなぁ」
一十が所有するレコーディングスタジオは全部で三ヶ所ある。
一箇所は自宅に、後は渋谷と中野にある。
その内の中野にあるスタジオで、喜多浦陽菜はスマホを眺めてはため息を吐いた。
中野のスタジオは最近出来たばかりで、建物も機材も新しい。
「陽菜もそろそろ、恋愛とかしてみたらどうだい?」
全てのパートを取り終わり、後はミックスダウンだけとなった一十は、納期に余裕がある事もあり、テーブルの上の菓子箱を楽しそうに物色している。
「無理っ!一十さん以上に愛せる人なんて絶対出来ないから」
陽菜は袋を開け、マシュマロを口へ運ぼうとする一十からそれを強引に奪い取った。
「わざわざ僕から取らなくてもまだあるでしょ。それに決めつけるのは良くないよ。長い人生どこに出会いが転がってるのかわからない」
「むぐむぐ…だって、今まで一十さんを超える男なんて出てこなかったもん。やっぱり一十さんが私の最初で最後の男なの」
そう言って、陽菜は一十にしがみつくように抱きついた。
すぐに大きな掌が背中を優しく撫でてくる。
「はぁ…困ったね。わかっていると思うけど、いつまでも僕は陽菜の側にはいられないよ?」
「わかってる…。わかってるよ。でもやっぱり一十さんじゃないと全然ときめかないよ」
陽菜は一十の胸に顔を埋めながら、彼の鼓動に身を預ける。
☆☆☆
午後からはトロピカルエースも出演する歌番組のリハが始まった。
今回のプログラムは出演者が多く、番組も五時間半ある為、とにかく拘束時間が長い。
長い待ちの時間、陽菜は他のアーティストをみなみと見学する事にした。
「支倉翔くんだ!何なのあのかわゆさ!めっちゃ尊い。キュンだよね〜♡」
ステージにはリハなのに、しっかり本番の衣装まで纏い、完璧なフリで決めている小柄な青年が立っていた。
みなみは大興奮でステージに魅了されている。陽菜でも彼は知っていた。
女性のような甘いハイトーンボイスが売りの歌手だ。
ルックスもまるで少女のように愛らしい。
これで27歳だというのが信じられない。
彼はスタッフ達にもにこやかな挨拶をして、ステージを降りていく。
彼はみなみ達のいる通路を通って楽屋へ戻るようで去り際、二人にも天使のような笑顔を浮かべた。
「トロピカルエースさん、おつかれさまです♡この後、頑張ってくださいね。では失礼します」
「うきゃー。ありがとうございます♪頑張ります!」
みなみは顔に手を当てて何度も彼にお辞儀をしている。
そして彼は軽やかに去っていった。
特に問題もない完璧な振る舞いだが、何か陽菜にはそれが演技くさく見えてしまう。
「やー、翔ちゃん可愛すぎてめっちゃヤバかったね。陽菜っち?」
「そう?あんなのこの世界じゃゴロゴロいるじゃん」
陽菜は去っていく彼の背中を見ながらそう冷たく言い放った。
(一十さん以外の男なんて、どれも同じに見えるし、眼中にないわ)
「それよりみなみ、あんなのが好きなの?真鍋さんはどうしたの」
「推しと彼氏は別腹だよ。翔ちゃんは純粋に推してるだけ。夕陽さんはもう私にとって神の領域だもんね。別格だもん」
「はいはい。それはごちそうさま」
陽菜は深いため息を吐いた。
☆☆☆
リハが終わり、いよいよ本番になった。
トップバッターにはトロピカルエースが抜擢され、いつもは緩いグループ内にも緊張が走る。
「皆!トップバッターだからって、何か特別やる事はないよ。いつも通り、最高のパフォーマンスをやればいいだけ!いいわね」
リーダーのさらさの掛け声で円陣を組み、全員一気にステージへ駆け出す。
陽菜もそれに倣い、一直線に狭い通路を駆け抜ける。
だが通路はスタッフや関係者たちで鮨詰め状態だ。
気付くと陽菜の他のメンバーたちは、真っ直ぐステージへ駆けていっている。
一人置いていかれた陽菜は慌てて何とか通路を抜けようとしたが、ベニヤで覆われた壁から出た釘に衣装が引っかかってしまった。
誰かに助けを求めようにも、皆自分の役割に夢中で誰も陽菜のピンチに気付かない。
(自分で何とかするしかないっ)
陽菜は何とか衣装を引っ張って逃れようと試みる。
しかし繊細な衣装が破れでもしたらステージになど立てない。
悔しさで陽菜の目尻に涙が浮かんだ。
「下らない事でメソメソ泣くんじゃねーよ。ブス。ほら。取れたぜ」
「?」
すると女の人のような柔らかで高めの声が頭から降って来た。
そして不意に壁に縫い止められていた衣装が自由になる。
驚いた陽菜は立ちあがろうとするが、鋭い痛みを感じた。
見ると膝に少し血が滲んでいた。
どうやら少し膝を切ったらしい。
それを見た謎の人物はいかにも面倒そうなため息を吐いた。
「ふぅ…。切ったのか?ったく、一々手がかかる女だな。これでしばらくしのげ。いいか、後で消毒しろよ」
その相手は口は悪いが、陽菜を助けてくれたらしく、膝には可愛いウサギとヒヨコのバンドエイドが貼られていた。
「あのっ…」
顔を上げようとすると、手袋に包まれた手に顔を覆われる。
「いいから行け」
「……ありがとう」
陽菜は手が外れた瞬間立ち上がり、ステージへと走って行った。
その間、チラリと後ろを見た。
細身のドレススーツにピンヒールのブーツを履いた小柄なシルエットが一瞬見えた。
あの人は誰だったのだろう。
今はそれを振り払い、陽菜は急いで駆け出しステージで無事メンバー達と合流出来た。
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