第197話

「この前、夕陽さんの会社の前で会いましたよね?」



「えっ?あの…俺の事、覚えてくれてたんですか」



「勿論ですよ。私、仕事柄わりと人の顔覚えるの得意なんですよ」



佐久間を呼び止めたのは、先日会った夕陽の恋人だった。


目の前の彼女はこちらに何の警戒もなく、天真爛漫な笑顔を向けている。


会ったとはいってもあんな一瞬のようなもの。

佐久間は特に目立つ容姿でもないし、印象に残るタイプでもない。


だからきっと記憶に留まらず、覚えていないだろう思っていただけに、ジワジワと嬉しい気持ちが胸に広がっていく。



「どうしたんですか?瞼なんて閉じちゃって」



「いえ、ちょっと感動して…」



「ふふっ、面白い人ですね」



目の前の女の子は服装もまるで気を使っていない、芋ジャージと体操着のような格好をして、口にはチューブタイプのアイスを齧っているだらしのないスタイルなのだが、それでも十分に可愛かった。


こうやって正面から見ると、本当にトロエーのみなみんによく似ている。



「で、どうしたんですか?何かエントランスで困った顔してましたけど」



「あ…あぁ、ええ。夕陽に借りた資料を返そうと思ったんですけど、留守みたいで」



そう言って佐久間は資料の入った袋を見せる。



「そっかぁ。ごめんなさい。私がお手伝いしたかったけど、これから仕事で宮古島行かなくちゃならないんですよね…。だからしばらく夕陽さんとは会わないし…」



これから仕事で宮古島って、一体どんな仕事だよと喉まで出そうになったが、ここはグッと堪えた。



「いえ、全然構いません。別に急いでいるわけでもないんです。夕陽には明日会社で返す事にしますんで」



それは本当だった。

資料は別にいつまでに返すとは決まっていない。

夕陽はいつでもいいと言っていた。

だから今日でなくてもいいのだ。


すると彼女は柔らかな笑みを浮かべた。



「そっかぁ。なら大丈夫そうですね」



「ええ、あの…親切にありがとうございました」



「いえいえ♡何もお役に立てなくて…あ、そうだ!ちょっと待ってくださいね」



彼女は何も思い出したように突然カバンの中を探り出した。



「?」



「あ、あった!ハイ、これ良かったら貰ってください」



そう言って、強引に手渡されたのは最近発売されたばかりのチョコレートだった。

それも箱でだ。


中にはギッシリとチョコレートが詰まっている。


これは佐久間も知っている。

何故ならこのチョコレートはトロピカルエースがCMを担当しているのだ。


既に全メンバー分の差分バージョンは録画済だし、コンビニで毎日のように買っている。

中にメンバーのステッカーが封入されているので、最近転売が激しくネットニュースにもなっている。



「えっ、こんなに?」



ファンの佐久間としては今一番欲しいものでもある為、これは非常に嬉しいのだが、気軽に受け取るには量が凄過ぎる。



「はい。これ、家にダンボールで無限に届いたんで消化に困ってるんです。夕陽さんもあまり食べてくれないし。だから遠慮なく貰ってください」



「マジですか。いや、それならありがたく…」



一体それはどんな状況だろうという思いが過ったが、彼女が笑顔で差し出してくると何も考えられなくなってくる。


佐久間はぎこちない手つきでそれを受け取ると、自分のカバンを広げた。



「あ、それ…」



「はい?」



その時、広げたカバンの内側が見え、中に隠すように付けていた永瀬みなみの缶バッジとアクリルキーホルダーが覗いていた。



「これ、みなみんの缶バとアクキーじゃないですか!」



瞬時に言い当てられ、佐久間は一気に顔が熱くなり、ゆでダコのようになる。



「ああああの…それはっ」



いい歳をした男が通勤カバンにこんなモノを付けてと、彼女に笑われたと思った佐久間は慌ててカバンを閉じようとする。



「めっちゃ嬉しい!みなみん、今は体力系のバラエティ番組ばかりだし、発言も痛くて時々炎上したりするけど、伸びしろしかないヤツだから、推し変する事なく推し続けてくださいね」



「は…はい!」



思いがけず、熱烈な後押しを受けた佐久間は戸惑いながらも幸せそうに笑った。





        ☆☆☆




「あー、またさら姐さんか。これで通算29枚目か」



あれから仕事が押しているという彼女と別れた佐久間は自宅へ帰り、トロエーの冠番組を見ながらステッカーの開封の儀を行っていた。


出てくるのは大抵が推しではない。

机の上にはさらさの様々な笑顔が散らばっている。



佐久間はぼんやりと今日あった事を回想する。



可愛かったあの笑顔。

アイドルが好きと言っても少しも態度を変えない懐の深さ。


全てが素敵で好ましい。



「夕陽はいいなぁ…」



あんな素敵な子と付き合えるのは、やはりイケメンの特権なんだろう。


そんな事を思いながら、またチョコを齧る。

あの時、彼女はやけに永瀬みなみを推していたなと思い出す。



「あ、そうだ。あの子もきっとみなみんのファンなんだ。だからあんなに熱くみなみんを語ったんだ」



ふと降りてきた考えに佐久間は一人で頷く。



「そうか。だから普段でもみなみんに寄せるメイクでもしてるんだな。最近のメイクって凄いな。本人みたいだった…」



どこまでも鈍い佐久間の恋愛経験値はまだゼロ。

旅立ちの村から旅立てないようだ。



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