第185話
「久しぶりの温泉だったからなぁ。少しのぼせたかも…」
夕陽は、やや熱った顔に手で風を送りながら大浴場から出て来た。
温泉は数年前、家族で行った箱根温泉以来の事で、こんなに広い浴場は初めての事だ。
当然磨き抜かれた浴場は綺麗で快適だった。
笹島は早々に出てしまったが、長風呂派な夕陽は居心地の良さについ時間を忘れて湯に浸かってしまった。
「あら、森さんの王子様じゃない」
「え?あ……乙女乃さんっ…。あの、その呼び方何とかなりませんか」
通路の壁にもたれて涼んでいたところに声がかけられる。
振り返るとそこには浴衣を着崩した妙に色っぽい乙女乃怜が立っていた。
彼女も風呂上がりなのだろう。
束ねた髪がやや湿っていて、その数本が首筋に貼り付き、何とも妖艶に見えた。
「あら、もう上がって来たの?じゃあ森さん達、残念ね」
「ん?何のことですか」
「いいえ。何でもないわ。こっちの事。それより貴方、みなみと結婚するんでしょ?」
怜は少しからかうような口調でこちらへ笑いかける。
微妙な話題に思わず夕陽はドキリとしたが、このフロアは一十が貸し切っているので誰もこの会話を聞かれる心配がない事に気付く。
「それは……その…俺にもわかりません。大体二人の間でそんな話をした事もないですし。あいつが勝手にやった事です」
夕陽は少しむくれた顔でそう返した。
あれからずっと夕陽はみなみと二人で話したいと思っているのに、中々その機会が訪れない。
すると怜は細い肩を振るわせ笑い出した。
それこそ腹を抱えて笑い出す一歩前くらいな勢いに、流石の夕陽も少し戸惑った。
「ちょっ…何がおかしいんですか?」
「ふふふっ、あははははっ。ゴメン、ごめんなさいね。ちょっとツボに入ったわ。だからそんなに不機嫌なのね。そうねぇ…あっ、結婚って勢いでするみたいな事、昔から言うじゃない。だからいっそのことその勢いに乗っかっちゃってもいいんじゃないの?」
「随分無責任な事、言いますね。実際そんな事になったら大変じゃないですか」
「まぁそうね。それはわかってる。こっちも色々なモノを犠牲にしてあの場所に立ってるもの。当然、私個人としてじゃない、トロピカルエースというプロジェクトに関わっている人達全ての生活がかかってる。皆、トロピカルエースを押し上げて支える事でご飯を食べてる。だからアイドルの結婚はそう簡単にはいかない」
「だったら…」
尚も言い募ろうとした夕陽の唇に彼女の人差し指が一瞬触れる。
香水のようなボディソープの香りが鼻先をフワリと掠めた。
その衝撃に思わず夕陽は言葉を失う。
「それでもアイドルや俳優、今売れてる旬な芸能人の結婚のニュースは絶える事はない。わかるでしょ?」
「そりゃ、まぁその芸能人たちも一人の人間なんだし」
すると怜はニッコリ笑った。
先程の馬鹿にするような笑いではない。
自然な笑みだ。
「つまりはそういう事よ。何だわかってるじゃない」
「は?何がですか」
「あの子も一人の女の子って事でしょ。もう後は自分で決めなさい。私もそろそろ耕平くんのところに行きたいし」
「あー、そ…そうですか」
どうやら怜は怜なりに後押ししたかったようだ。
「私は去年、色々なところに迷惑かけまくっちゃって、まだ当分個人的な将来を考えるのは無理だけど、貴方たちならきっと何とかなると思う。頑張んなさいよ。でないと後に続けないじゃない」
そう言って怜は嬉しそうに廊下の向こうへ消えていった。
笹島に会うのが余程嬉しいのだろう。
何だかそこは可愛らしく思えた。
「ふぅ…。俺も腹括るかな」
夕陽はゆっくりと歩き出した。
その頃、夕陽が出て無人になった殿方の浴場へ忍び込む三人の人影があったという。
その後、その人影がどうなったのは知る者はいなかった…らしい?
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