第178話

「夫になる人、妻になる人…かぁ」



目の前に広げられた薄い紙を眺め、夕陽はフゥッと息を吐き出す。

両親も出したであろう婚姻届。

一体どんな気持ちで記入し、提出したのだろう。


思えば両親とは一度もそんな話をしてこなかった。

別に聞きたいとすら思わなかったし、興味もなかった。


今でも聞こうと思えば聞けるが、やはり気恥ずかしい部分が先立つ。



「何々、夕陽。もしかしてマタニティブルーってヤツ?」




少し離れたソファでスマホのゲームをしていた笹島はニヤニヤ笑いを浮かべている。


彼は昨日のライブ後、家族と別れてからもついて来て夕陽の部屋に泊まったのだ。


「アホか。それを言うならマリッジブルーだろ。それって男にも適用するのか?いやいや、別にブルー入ってないし。戸惑ってるって方が強いよ。今は」



昨日のライブから一夜明けた。

みなみへ一応メッセージは送ったのだが、返ってきたのはネコが忙しく動き回るスタンプのみだった。


全く意味がわからない。


まぁトロピカルエースは年末の歌番組という大仕事が控えている為、今一番忙しいのだろう。

それに笹島から聞いた話では、年明けもすぐに地方の生放送での番組出演もあって東京にすらいない状態が続くようだ。



「で、それいつ出すん?」



笹島の視線の先には婚姻届がある。

そこにはまだ自分の名前は書いていない。



「出さねーよ。つか出せるか」



夕陽は荒々しくため息を吐き出すと、立ち上がって冷蔵庫から水のペットボトルを取り出した。



「何でよ。出せばいいじゃん。向こうもそのつもりで夕陽に託したんじゃね?」



「んな簡単なもんか。怖いだろうが」



「まぁ、肝心のみなみんの本心がよくわからんからね。迂闊に出せないか。あ。そういえばさ、婚姻届っつたら証人いんじゃん。それ、どうなってんの?」



「あぁ?そうだな。忘れてたわ。あれ、空欄かと思ってたけど、何か書いてあるな」



当然の事ながら、婚姻届を提出するには証人として成人二名以上の署名が必要となる。


これには誤った婚姻関係が結ばれるのを防止する等といった理由があるのだが、証人がいないと役所で婚姻は受理されない。


大体は友人や会社の上司、またはお互いの両親等に頼むのが一般的だが、みなみの渡してきた婚姻届にはもう証人が記入済みだった。


それを見た夕陽の目が驚愕に見開かれる。



「げっ、これ森さらさと乙女乃怜じゃねーか」



「えっ、マジか!夕陽、それ見せてくれ。二人の住所とか個人情報…っ」



そう言った瞬間、笹島が目の色を変えてテーブルに飛びつこうとした。

だが夕陽は即座にそれを回収する。



「誰が見せるか。一番見せたらアカン奴だろ。それより乙女乃怜なら、こんなの見なくてもお前ならわかるんじゃないのか?」



乙女乃怜はどういう世界線でそうなったのか今だに謎だが、笹島の彼女である。

だから別にこんなものを見なくてもわかるはずだ。



「いやいや。それが怜サマ、まだ引っ越してないみたいで、どこに住んでるのかわからないんだよね」



「まだ森さらさのとこにいるんじゃないのか?」



「あ、そかそか。だったら余計遊びに行くわけにも行かないよなぁ」



「まぁ、そうだな…」



笹島はガックリと項垂れた。

まだ付き合いたての二人はまともにデートも行けてないようだ。



「まぁ、この事は一旦保留にして、普通に年末年始を過ごすしかなさそうだな」



テレビをつけるとすぐにトロピカルエースのメンバーが目に入る。

その中にみなみの姿を見つけた。


少し疲れているようだが、それでも画面の中では一際楽しげに振る舞っている。


人気絶頂アイドルは今日も忙しそうだ。















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