第162話
「……そう。そうなのね」
詩織は打たれた頬に手を添え、暗い瞳でみなみを見返す。
室内の暗さもあって、その姿は異様なものに見えた。
「あんたはいつもそう…。あたしの為と言っては自分を肯定する」
「な…何の事よ」
みなみは強張った表情で口を開く。
リップは塗ったはずなのに、極度の緊張からか唇はカサカサでまるで湿り気がない。
そんな動揺を気取ったのか、詩織は薄く笑った。
「わからない?少しは自分で考えるべきね。言っておくけど、あたしはあんたに何も求めてなんかない。あたしが求めるとしたら、ただ一つ。あんたとの何も変わらない生活よ」
「詩織……」
みなみはただじっと耐えるように唇を噛み締めた。
「ねぇ、じゃあ私はどうしたらいいの?」
すると詩織は突然笑い出した。
「ふふふっ。それをあたしに聞くの?」
「だってもう私には詩織がわからないもん…」
みなみは顔をくしゃりと歪める。
「そう。わかった。じゃあ、今すぐアイドルなんか辞めて、あたしと熊本に帰って」
「えっ?」
みなみは弾かれたように顔を上げた。
詩織は穏やかな表情でこちらを見ている。
「ねぇ巳波、向こうでまた二人きりでやり直しましょう?お店を開くのもいいわね。小さなお店。そこでいつまでも二人きりで暮らしましょう」
詩織はうっとりした表情で両手を胸の前で合わせた。
みなみがアイドルになったのは元々は詩織を元気付ける為だった。
それを辞めろと詩織は言っている。
みなみの瞳が揺れた。
「それに従ったら、このお店も辞めてくれるの?」
「ええ。いいわよ。別にここに未練なんてないもの」
「…じゃあどうしてこんなお店を……」
みなみは改めて店内を見渡した。
酒と香水の匂いが充満するカウンターには様々なグラスと酒が陳列している。
明らか夜の気配の漂う店。
そこで毎晩繰り広げられる喧騒。
ここは詩織のような女の子がいていい世界でない。
すると詩織は再び笑い出した。
「このお店はね、償いなのよ」
「償い…?それはどういう事なの?」
みなみが詳しく聞き出そうとした時だった。
突然、裏側の扉が開き、ガラの悪い男が入ってきた。
みなみはその男に見覚えがあった。
「また…この前の人」
それは以前も詩織の傍にいた崇という男だった。
限竜の話では確か円堂の弟だという。
その崇はみなみの顔を見ると下卑た笑みを浮かべた。
「何だよまたお前か。地下アイドルの方がまだ仕事あるんじゃね?売れてねぇのな」
「止めて。崇」
「……」
崇は屈辱感を煽るような言動でみなみを一瞥する。
この男は一体どうして詩織の周りを彷徨いているのだろうか。
そんな視線の意味を理解したのか、詩織は傍の崇に目配せをする。
崇は軽く肩を竦めると、今度は入口の方から出て行った。
みなみとすれ違う瞬間、強いアルコール臭を感じ、みなみは息を詰めた。
「あの男が気になるの?」
「円堂社長の弟なんでしょ」
「あら、そこまで知ってるの?もしかして紘太から聞いた?」
「……誰、それ」
詩織が小馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「伏見紘太。ナントカ限竜ってふざけた名前の演歌歌手の事よ」
「へぇ、そうなの。もしかして知り合いなの?」
すると詩織は笑みを深めた。
「言ったでしょ。償いだって。後は自力で考えなさい。円堂とあたしを繋ぐものを、そうしたら察しの悪いあんたでもわかるでしょ」
「何を言って……あっ。まさか」
次の瞬間、何かに気付いたようにみなみが口元を両手で覆った。
詩織はそれを見て満足そうに頷く。
「そ……それ、本当なの?」
「あんたの考えが何かわからないから、あたしには答えようがないわ」
「くっ……」
それは恐ろしい想像だった。
自分の考えが正しければ、みなみは決断しなくてはならない。
「……私の考えが合っているなら……だったら余計詩織をここに置いてはおけないよ。ねぇ、何でなの?」
「………ふっ。何それ。今更置いておけないってどういう事よ。あんたがあたしを置いていったんでしょ?」
詩織は血を吐くように叫ぶ。
彼女の全身から棘が突き出しているような強い否定の言葉だった。
「そんな事ない!私は詩織を置いてなんかいないよ」
「ふっ。もうそんな事はどうでもいいわ。巳波、あんたが選びなさい。あたしを切り捨ててアイドルとして生きるか、あたしと熊本へ帰ってやり直すか」
「……わかった。でも少し時間をちょうだい」
「ええ。お好きにどうぞ」
みなみは低い声でそう返した。
そしてゆっくりと踵を返す。
去り際、その背後に声がかけられる。
「あ、言っておくけど一緒に熊本に帰るなら男とは別れなさいよ」
「…………」
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