第157話

その頃、夕陽は実家の周辺を歩いていた。

昨日の夜に母から作り置きのおかずを取りに来いと呼ばれていたのだ。


どうせ年末には二、三日帰るつもりでいたので一度は断ったのだが、母の「いいからつべこべ言わず来い」の強引なパワーワードに押されて、気付いたらここまで来ていた。


実家のピラミッドの頂点は母である。

母のご不興を買う事はあってはならない。

そう幼い頃から父に言われて育ってきたので、これは悲しい条件反射のようなものだ。


さて急に呼ばれたという事は、どうも単におかずを持たせたいという母の親心だけではない気がする。


これには何か厭な予感がした。

だからか家へ向かう足取りも心なしか重い。


母は一体何を言うつもりだろう。

そんな事を考え、難しい顔をしながら歩いていると、背後から声が掛けられた。




「あれ、もしかして夕陽…じゃない?」




声は女性のものだった。

振り返ると、夕陽の表情がすぐに困惑から驚きに変わった。



「トワじゃないか。びっくりしたな」



そこに立っていたのは、夕陽の高校の頃に付き合っていた元彼女、結崎翔羽ゆうざき とわだった。



トワは懐かしげにしげしげと夕陽の全身を見渡すと、破顔した。



「全然変わってないね〜。後ろ姿だけですぐわかったもん」



「そうかな?最後に会ったのって確か4年前の同窓会だったよな」



「うんうん。そう。あたしが短大行ってた頃だったね」



あの頃も化粧はしていたが、今のトワはもっと洗練された化粧をしている。


服装も落ち着いたもので、ベージュ系のパンツスーツにローヒールのパンプスが大人の女性を感じさせる。

中でも一番変わったのはやはり髪型だった。昔は腰の辺りまであった髪はもう無く、肩のラインで緩く巻いている。


元々目鼻立ちのはっきりした顔立ちだったので、化粧をすると更にそれが際立つ。


何となくその変化が自分の見知っていた彼女と違うような気がして、夕陽の心を騒つかせた。


もう彼女はあの頃の彼女ではない。

自分とは違う世界を知り、自分の知らない世界の人間になったのだろう。



「あれ、そういえば就職、九州に行ったんじゃなかったっけ?」



夕陽の記憶では、同窓会の時に福岡の本命企業から内定が来たと嬉しそうに皆に報告していたはずだ。


するとトワは少し寂しげに微笑んだ。



「うん。福岡には行ったよ。だけどね、入ってすぐに身体壊しちゃって辞めたんだ」



「そうだったのか…。ごめん。嫌な事聞いちゃったよな」



「ううん。大丈夫。もう今は元気になったから。ずっと憧れてた会社に入れたのは良かったんだけど、夢と現実はやっぱり違うよね。入ったら想像以上にキツくて。ガムシャラになってついて行こうとして、気付いたら病室だった」



「…………」



トワは泣き笑いのような顔をした。

悔しかったのだろう。




「それでね。お母さんが泣きながら帰っておいでって…。そうしたらもう涙が止まらなくてね。情けないけど、退院したらすぐに東京戻ってた」



「そうか…。大変だったんだな」




あの同窓会で、彼女が夢であった大手アパレル系の企業への内定を決めたと照れた顔で報告した時の様子を今でも覚えている。

そしてその本社が九州にあるので、彼女は春から東京を離れる事も言っていた。


その時はもう二人は付き合っていなかったので、夕陽は直接彼女に声をかける事はせず、その様子を笹島と一緒に遠巻きに眺めていた。



「もう今は平気だよ。あれから無理しないって決めたから。今はね、派遣で色々な仕事してるの。今日もね、来月からまた新しい職場になるから挨拶してきた帰りだったりするんだ。あ。ねぇ、夕陽は今、仕事何してるの?」



「へぇ。そうか。俺はイベント系の会社にいるよ。笹島も一緒なんだ」



笹島の名前を聞いてトワは軽く笑った。



「えー、笹島ぁ?マジで?ウケる。あいつまだアイドル追っかけてるの?」



「う…、まぁ。うん。今も追っかけてるよ」



一体何がウケるのだろう。

そしてまさか笹島は今では本当にアイドルと付き合っているとは言えない。

夕陽はそれを軽く流した。



「そっかぁ。それにしてもイベント系ねぇ。実態の掴めないふわふわした職種よねぇ」



「それ、別のヤツにも言われたよ」



真っ先にみなみの顔が浮かんだ。

確か出会ったばかりの頃にそんな事を言われた気がする。



「あー、じゃあさ、今付き合ってる人はいるの?」



「……っ!」



無邪気にトワが切り込んできた話題に夕陽は一瞬言葉に詰まった。



「夕陽?あれ、もしかして触れちゃ不味い話題だった?」



気遣うようなトワの視線を受け、夕陽は大丈夫と軽く片手をあげ、深く深呼吸した。



「…あぁ。いるよ」



「そっか、そっかぁ。どのくらい付き合ってるの?」



「去年の夏頃からだよ」



「ふぅん。じゃあ…どんな人?」




少し揶揄うようにトワがグイグイ突っ込んでくる。

夕陽は内心もう勘弁してくれと言いたくなったが、何とかソフトな言い回しを考える。




「…うーん。ちょっと変わった子だよ」


 

「変わった?普通じゃない感じ?」



「まぁ。そうだな」



「まさか笹島とか?」




「ぶっ…なわけあるか!気色悪い」




思わず両手で腕を摩る夕陽を見て、トワは楽しそうに笑う。


つられて夕陽も笑いそうになったところで二人の前に買い物袋を提げた夕陽の母が歩いてきた。


母はしばらく二人の顔を見て、ようやく合点が入ったとばかりに頷いた。




「あらあらあら、誰かと思ったらトワちゃんじゃない。久しぶりねぇ。すっかり大人な美人になっちゃって。一瞬誰かわからなかったわ」



「あ、おばさま。ご無沙汰してます。ちょっと仕事の関係でこっちに来たところで彼と会ったんです」




トワが深々と母に頭を下げる。


トワとは付き合っていた時、学校帰りに何度かデートをしていたのを目撃されてから母とは顔見知りなので恥ずかしさも倍増である。


その後、彼女がバイトを始めるようになった時、心配で送り迎えをしていた事もバレていた。



「あら、そうなの?あ、ちょっとウチに寄ってきなさいよ。なんだかんだでトワちゃん、まだウチに来た事なかったでしょ」



「ちょっと母さん!」



これには夕陽も焦り出す。

二人はもう恋人ではないのだし、こういう傲慢さは彼女も迷惑だろう。


するとトワは優しく微笑んで母と目を合わせる。



「済みませんが、この後友達と会う約束があるんです」



「あら、そうなの?でもトワちゃんならウチはいつでも歓迎よ」



トワはありがとうございますと、また頭を下げて二人から距離を取る。



去り際、トワは夕陽に耳打ちした。



「じゃあね。元カレの夕陽くん。結婚式には呼んでよ。それまでにあたしもいい人見つけるから」



「トワ……」














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