第148話
同じ頃。
夕陽はマンションの前に立つ、不審な人影を見つけ訝しげに眉を顰めていた。
その人物は周囲の目を気にしてか、辺りをやたらキョロキョロ見回し忙しない。
上背はあるが、コートを着ていてもわかる、恐ろしいくらいメリハリの効いたボディラインは女性のものだ。
足首まで覆う長いコートの裾から覗くヒールはアイスピックのように細い。
果たしてこのような知り合いがいただろうか。
その女性は自分の部屋の辺りを見上げているようだが、全く心当たりがない。
夕陽は怪しく思いながらも、さりげなくその女性の脇をすり抜けていこうとした。
その時、いきなりその女性が自分の腕を掴んできた。
それもかなり強い力で。
「ちょっと待ちなさい。まさか無視する気?」
「は?え……あ、乙女乃…怜さん?」
突然腕を掴んできた女性を見て、夕陽は目を見開いた。
その女性はトロピカルエースの乙女乃怜だった。
彼女はこちらを挑発的に見返してくる。
正面から見ると、ただ羽織っただけのコートの間から圧倒的なボリュームの胸が覗いている。
その今にもこぼれ落ちそうな質量を前に、夕陽はすぐに視線を外す。
「いやいや、全然見てないですから。興味ないですから。本当ですから」
「……あのね、今のでどこ見たのか自分で言っちゃってるからね。まぁ別にいいけど」
「…スミマセン」
「別にいいって言ったでしょ。慣れてるから。そういうの。ところでみなみは帰ってる?」
怜は腕を組み、少し困ったような顔で笑った。
どうやら怜は夕陽の部屋ではなく、隣のみなみの部屋を見ていたらしい。
「いえ…あれ、早乙女さん知りませんか?あいつなら今日の夜はラジオのゲスト出演があって帰りは遅いはずですよ」
「あ。そうなの?貴方詳しいのね」
同じグループに所属していても、メンバー全員のスケジュールを把握してしているわけではないらしい。
「はぁ、まぁ。大体二週間くらいの大雑把なスケジュールは送ってもらってるんですよ。会いたい時はこの空白の部分の日付や時間を選んでくれって」
そう言って夕陽はスマホのスケジュール管理アプリを開く。
そこにみなみの大体の仕事のスケジュールが入っていた。
社外秘もあるので詳しくは書かれていないが、その空いている部分がオフという事になる。
これは最初にみなみと付き合う事になった時に二人で決めた事だった。
「なるほど。そうやって貴方たちは付き合ってきたのね」
怜は感心したように頷く。
彼女も笹島と付き合う上で参考にしようと思っているのかもしれない。
「まぁ、そうですね。どのタイミングで電話していいかとか、わかりやすいのですれ違いは減りましたよ」
「へぇ。そうなんだ。いいわね。そういうの」
「ははは、そうですかね?あ、笹島とはどうなんですか。あいつちゃんと彼氏やれてますか」
「ふふっ。何それ。彼は彼なりに足りない経験値を補おうと努力してくれてるわ。今はそれが嬉しいの」
「へぇ、あいつの事だから推しと付き合う事になって、メチャクチャやってんのかと思いましたよ」
から回ってる笹島しか想像できなかっただけに、それは意外だった。
「まぁ、半分は空回りしてるわね」
「あぁ……やっぱり」
怜は笑った。
「それでいいの。今を楽しみたいから。前みたいに過去の事や先の事なんて考えるのは止めたの」
「そうですか。いいんじゃないですか。お似合いだと思いますよ。二人」
心からそう思った。
多分怜を変えたのは笹島なのだろう。
彼女の幸せそうな顔を見て夕陽はそう思った。
すると怜が夕陽に囁く。
「本当はね…今日、みなみに直接聞きたかったのよ。円堂が本格的にみなみの獲得に動き出したっていうから、森さんに様子を見て来いって言われたの」
「え、その話ってマジなんですか?」
夕陽は耳を疑った。
脳裏にあの野崎詩織と円堂のやり取りが浮かんだ。
怜はやや俯き、ため息を漏らす。
「本当かどうかは本人から聞いてみない事には」
「ですよね…。でもあいつ俺の前ではそんな素振りや言動なかったんで、俺にもちょっとわからないんです」
「……そう…なのね」
そこで夕陽は思い至る。
「あの、円堂の事務所に移籍したら具体的にはどう変わるんですか?」
「え?あぁ、そうよね。わからないわよね。まぁ、大きく変わるのは事務所の方向性かしら」
「方向性…ですか?」
いまいちピンと来ない様子の夕陽に怜は頷く。
「ええ。まぁ、事務所の力関係も影響してくるけれど、各芸能事務所には得意分野みたいなのがあってね、トロエーの所属する「six moon」は主にアイドルやグラビア方面に強いの。円堂の「Sky blue」はどうも舞台や映画、ドラマ等の俳優を主軸にしているみたいなの」
「つまり、アイドルは専門ではないって事ですか?」
怜は再び頷く。
「ええ。円堂の事務所にも何組かアイドルはいるけれど、あまり力を入れて売り出してないみたいね。飽くまで俳優を売り出したいんだと思う」
「…そうなんですか。でもあいつが俳優ねぇ」
確かに最近、みなみの仕事はドラマや舞台等が増えてきた。
最初は辿々しかった演技も上達してきたように思える。
しかし円堂の人柄を考えると、単純にみなみの演技だけで動くとは考え難い。
怜もそう考えているのか、表情は硬い。
「まぁ、まだ何も確かなものはないし、話を聞きたかったみなみはいないようだし、取り敢えず帰るわ。この後、あたしも仕事だし」
すると怜はスマホの時計を見て動き出す。
気付けばかなり長い間立ち話をしていたようだ。
「すみません。お時間取らせて。あ、タクシー呼びますか?」
「車で来たから結構よ」
すると怜はポケットから車のキーを見せた。
「早乙女さん、自分で運転するんですね」
ちょっと意外に思った夕陽は思わずそう口にしていた。
すると怜は少し得意そうに笑う。
「まぁね。休みの日とかはよく一人であちこち出掛けていたわ。でもあまり人を乗せた事はないの」
「へぇ、意外です」
「そう?ドライブは気分転換には最高よ。貴方は運転しないの?」
「あぁ、それはわかるかもしれません。俺は就職先の備考欄に運転免許必須とあったので取得したに過ぎなくて、自分の車は持ってないし、運転は仕事でしかしませんね」
夕陽が免許を取ったのは大学卒業前の事だ。
あまり車に興味のない夕陽は、免許を就職の為に取得したに過ぎなかったので、娯楽に利用するという発想はなかった。
機会があったら今度レンタカーでも借りてドライブをしてもいいかもしれない。
「ふふっ。みなみを連れて行ってあげるといいんじゃない?きっと喜ぶと思う。じゃあ、そろそろあたしは行くわね」
「あ、はい。お気をつけて」
カツカツとヒールの硬質な音を立てて怜は去っていく。
「みなみの移籍か…」
その後ろ姿を見送りながら、夕陽はぼんやりとみなみの事を考えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます