第142話
雨が降った後、空を見上げると薄っすらと虹が見えた。
限竜は目を細めてずっとそれを見ていた。
左手に持った吸い差しの煙草からゆらりと紫煙が立ち昇り、空に溶けていく。
やがて足元を見ると、固く閉じた蕾が今にも咲きそうに綻んでいた。
もうじき本格的な冬を迎えるというのに珍しい。
吸い差しの煙草を携帯灰皿に押しつけ、ゆっくりと立ち上がる。
何もかもが、ゆっくりと移ろいゆく。
一緒にベンチに座っていた詩織がそれを見上げながら口を開く。
「紘太になら、巳波をあげてもいいよ」
「何よ。藪やら棒に。大体あの子はあんたのモノじゃないでしょ」
詩織は限竜の隣に立ち、小さく笑った。
冬枯れの下生えに薄手のワンピースから覗く彼女の細い足首の白さが際だって見えた。
そこからさりげなく視線を逸らした限竜を見て彼女はどこか満足そうに笑みを深くした。
「好きじゃないの?ああいう子」
「好きよー。でもあの子とはそういう仲じゃなくて、友達でいたいのよ」
「後から後悔して泣くのがわかってるのに、紘太は絶対損するタイプだよね」
「ほっといてちょうだい。そういうあんただって人の事言えないでしょ」
「私はこれでいいの」
ついやり返すと、詩織は小さく舌を出した。
それが何となく子供染みていて限竜の笑いを誘う。
限竜は緩く伸びをして詩織に背を向ける。
その背を見ながら詩織は肩を竦めた。
「……あの人は結局何がしたいのかしらね」
「さぁ。あたしもあんたとあの人の事は詳しい事情を聞かされているわけじゃないから憶測するしかないけど、あれで「償い」とでも思ってるんじゃない?一種の自己満足よ。まぁ、あたしはどこにもいけないから、従うしかないけど、あんたはその気になればどこへだって行けるじゃない」
限竜は自嘲気味に笑った。
自分は生き方を選べない。
何処へも行けない。
しかしそれを選んだのは自分自身だ。
殻を破り、外の世界へ飛び立つ力があったはずなのにそれをしなかった。
彼女も同様だろう。
訊ねなくとも答えはわかっている。
彼女と自分は似ているのだ。
「そうね。私もいつかここじゃない場所から違う景色を見てみたいわ」
「ええ。ならきっとその日があたし達の真の意味での「自立」…なのね」
それはいつになるのだろうか。
その時、限竜のスマホが振動した。
相手は円堂からだ。
「あらいけない。あたしそろそろ次の撮影があるんだった。あなた一人で帰れる?」
スマホを確認すると、限竜は慌てて車のキーを取り出す。
詩織は笑って応える。
「ええ。散歩でもしながら帰るわ。もう今日は店には行かない」
「「今日は」…ね。まぁいいわ。昼間ならあの男も現れないだろうし。でも一応家に着いたらメッセージちょうだいね」
「はいはい。わかった。わかったから早く行きなさい」
詩織は虫でも払うように、限竜を促す。
どこか後ろ髪引かれる思いで限竜は公園の外の駐車スペースにとめた車の方へ駆けていく。
「巳波……。もう私たちの世界は交わる事はないんだね」
詩織は去っていく限竜の車を見送ると、ゆっくり歩き出す。
空には虹がかかっていたが、彼女の視界には入らない。
☆☆☆
「あ〜。退屈っ。夕陽さん。何か一発芸やってよ」
「あのなぁ。お前は俺をなんだと思ってるんだよ。退屈ならそこの漫画でも読んでりゃいいだろ。俺は今掃除で忙しいんだ」
久しぶりに隣のみなみの部屋へ訪れた夕陽は、その惨状に言葉を失う程の衝撃を受けた。
半月来なかった間に床はゴミで溢れ、脱ぎ散らかした衣類はソファにだらしなく投げ出され、キッチンは荒れ、シンクにはカップ麺や弁当の容器がそのまま突っ込まれている。
おまけに三角スペースの生ゴミは鼻が曲がるくらいの悪臭を放っていた。
これが年末の歌合戦に連続出演が決まった国民的アイドルの私生活とは思えない。
「だってアルバムの収録とドラマの撮影にライブのリハで家事する暇ないんだもん。こんなの皆普通だよ。きっと森さんとか陽菜だって同じレベルの部屋だよ」
「お前なぁ、失礼だろ。わからないけど、あの人達はちゃんとやってると思うぞ」
特にさらさは家事をきっちりやるタイプだろう。
それは同じスーパーを狩場としている同志なのでわかる。
「あー、はいはい。でもウチにはスーパー主夫夕陽さんがいるから大丈夫♡」
「ちっとも大丈夫くないだろう。大体何で居間にパンツとブラが散乱してんだよ。お前こんなとこで全裸になってるの?」
夕陽は床のゴミの中から繊細なレース生地の布地を指差す。
もう彼女の下着を見ても全く動揺しなくなった自分が悲しい。
言うなれば母親の下着を見かけたレベルの穏やかさだ。
「あー、それね。ほら、脱ぎながらバスルーム行くから」
夕陽の脳裏に友人にして同僚の佐久間の姿見が浮かんだ。
ワンルームマンションに住む佐久間は帰宅するとビールを開け、その場で衣服を全部脱いで浴室へ向かう。
上がるとビールを飲みながら軽く身体を拭くだけで、後は全裸で過ごすのだ。
「………佐久間のようなヤツがいたとは。それも現役アイドルが…お前、本当は男じゃないのか?」
「えー、そんなの夕陽さんが一番知ってるクセに」
そう言ってみなみは前方で腕を絡め、ささやかな胸の谷間を強調させる。
しかし掃除モードの夕陽には通用しない。
おでこを人差し指でパチンと弾かれてしまう。
「痛っ!夕陽さん、何するの」
「うるさい。とにかく今日中にここを人の住める空間に戻すぞ」
「えー、面倒くさい。私、夕陽さん家の子になるからいいよ」
「そんな部屋を汚す子はウチには入れません!」
夕陽はうんざりしながらも、ゴミを拾うのだった。
「もしコイツと結婚したらどうなるんだろう…恐ろしいな」
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