第141話
会社を出る前に一応妙な人物がいないか確認する。
帰る支度をして、これから会社を出ようとしたところでみなみからメッセージが届いたのだ。
少しの時間でもいいから会いたいと。
外で彼女と待ち合わせる場所はいつも決まっている。
初めて会う約束をした時に、彼女から指定して来た場所だ。
小さな喫茶店。
あの時の彼女は本当に憎たらしくて、腹が立った。
大切なものを拾って返してやるというのに、無礼な物言いで夕陽を威圧し、更にこっちが謝礼目当てだと決めつけて一万円札を突き付けてきた。
一体彼女は人を何だと思っているのだろう。
いくらアイドルだからといってあの態度は許せなかった。
そんな最悪の印象だったが、今はこんなにも大切な女の子になるとは思わなかった。
当時を思い出して夕陽は微かに口元を緩める。
店に入ると、ふんわりと暖かい空気と淹れたてのコーヒーの香りが鼻腔を擽る。
いつもの場所に彼女が座っている。
少し人目を気にして俯く横顔のラインがたまらなく好きだと思う。
「おう、遅くなって悪かった」
夕陽は出来るだけさりげない動作で彼女の隣に座る。
彼女はスマホを見ていたようで、夕陽が隣に座るとスマホを横に置いて軽く睨みつけてくる。
これは怒っているわけではない。
彼女は視力があまり良くないのでいつも姿を見せると、じっと睨みつけるように確認してくるのだ。
「ううん。いいよ。私が急に呼んだんだし」
待ち合わせの相手は永瀬みなみ。
現役アイドルが彼女だと普通の恋愛とは違うのかと思っていたが、特に特別な事はしていない。
確かに彼女の仕事は忙しいが、逢いたければ逢って、こうしてデートもする。
お互い暗黙のルールは仕事の話はしない。
勿論話していい範囲での話なら話していいが、あまりしないようにしていた。
だから夕陽は今、みなみがどんな仕事をしているのか詳しくは知らない。
春からのドラマの撮影をしている事くらいは知っている程度だ。
「それでどうしたんだ?急に呼び出して」
「えー、別にいいじゃん。ただ会いたくなったからで」
「それならいいけど。お前、疲れてない?」
何となくだが、濃いめのサングラスの向こうの目元がやや黒ずんでいるような気がする。
するとみなみは手元のカップを見つめて笑う。
「平気平気。全然疲れてなんかないよ」
「本当か〜?怪しいな。忙しいとは思うが、ちゃんと休むべき時は休めよ」
夕陽はみなみの隣に座ると、自分もコーヒーをオーダーした。
「うん。わかった。それより今日は久しぶりのデートだもんね。楽しもうよ」
「はいはい、お付き合いしますよ」
夕陽は肩を竦めた。
まだみなみは何かに悩んでいるようだ。
だが夕陽は今はそれを聞かない事にした。
以前から気付いている事だが、さらさが言っていた。それは多分事務所の移籍問題の事だと。
それに関しては夕陽もしっかり相談に乗れる自信がない。
「……どうしたものかな」
☆☆☆
「ふぅ…。またここなの。あんたもいい加減にしてくれない?あたしはあんたのお守り役じゃないんだから」
新宿のバーの片隅でソファに横たわる女性を見下ろし、限竜は深いため息を吐いた。
「…そんなのわかってる。だから放っておけばいい」
意識があったのか、横たわっていた女性がこちらに顔を伏せたまま応えた。
「そういうわけにもいかないのよ。わかってるクセに。さぁ、帰るわよ」
限竜は女性の腕を掴んで立ち上がらせる。
するとアルコールと香水の香りが立ち上り、喉元まで吐き気が迫り上がる。
「……あたしも今日はあまり体調良くないのよね。うっかり貰いゲロしそうだから少し強引にいかせてもらうわよ」
「え?ちょっ…」
限竜は女性を軽々と肩に担ぎ上げると、抗議の声を無視して見せの出口へ向かう。
「ちょっと下ろして!男になんか触られたくない!」
「あっそ。ロクでもない男に易々と身体を与えておいて、あたしはダメってどういう事よ」
「うるさい、うるさい、うるさいっ!」
やれやれと限竜は再びため息を吐いて彼女を連れ出す。
「……紘太」
「…その名前で呼ばないでちょうだい。詩織」
「……莫迦。紘太は紘太でしょ」
詩織は彼の肩に顔を埋め、再び眠りに落ちる。
限竜は詩織を抱え直し、暗い夜空を仰ぎ見た。
「何でかしらね、無性にあの子に逢いたくなるのは……」
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