第116話

朝、笹島が身支度を整えて階下に降りてくると、普段は閉まったままの客間の襖が半分程開けられている事に気付いた。


不思議に思った笹島は、ゆっくりと部屋に近寄り、中を覗こうとする。



「あら。おはよう。耕平くん。今日も出勤なの?」



「はひゃうっ!?」



そんな無防備な背中に突然声がかけられる。

文字通り飛び上がる笹島。


それを見た声の主である怜は楽しげに笑った。


「あはははっ。何?その声」



「も…もぅ。驚かさないでくださいっすよ?莉奈さん」



「あら、勝手に人の部屋を覗き込む不貞の輩にそんな気を使う必要あるかしら?」



怜は勝ち誇ったように両腕を組んで艶然と微笑んでいる。

まるで女王様のような風格だ。


その怜だが、今日はいつもの気怠い浴衣姿どはなく、しっかりメイクを施し、髪を緩く巻き、綺麗なエメラルドグリーンのドレススーツを纏っている。


いかにもこれからお出かけというようなスタイルだ。



「ぐぬぬっ。あれ、そういえば莉奈さん、どっかお出かけっすか?」



「えっ?ええ。まぁ…そうよ。……その、佐野さんに会いに行くわ」



それを聞いた瞬間、笹島はパッと笑顔になった。



「そっすか!いよいよ行きますか。上手くいくといいですね」



「うっ……えぇ。でもやっぱり今でも怖いわ」



「大丈夫っすよ。絶対受け入れてもらえますって」



怜は今日、初恋の相手だった佐野隼汰に自分が小学生の頃、佐野に告白した早乙女莉奈だと話す事にした。



「………うん。今日は頑張ってみるわ」



「そっすよ。その意気っす!あ、じゃあその前にちょっとだけ時間もらっていいっすか?」


「ん?何かしら」



笹島は怜を客間へ戻し、家族の誰も周囲にいない事を確認すると、大きく息を吸い込んで深呼吸した。



「莉奈さんが初恋の人に会いに行く前に言っておきたかったんです」



「?」



怜は訝しげに首を傾げる。

見ると笹島の手は微かに震えているのが見えた。

何やら相当緊張しているようだ。



「俺、ずっと乙女乃怜を推してました。今でもこれからもっす。それは変わりません。でもこの半月で俺は早乙女莉奈という生身の女の子の色々な一面を知って、乙女乃怜ではなく早乙女莉奈を好きになりました」



「耕平くん……」



怜は肩を震わせ、息を呑んだ。

まさかこの意気地のない笹島がこんなしっかりした告白をしてくるとは思わなかった。



「あっ、別に返事が欲しいわけじゃないっす。ただ俺がどう思ってるのか知っておいて欲しかっただけっす。それに佐野さんとの事を応援する気持ちは本物ですから。莉奈さんが笑顔になれば俺はそれだけで幸せっす。だから今日は頑張ってください」



すると怜の目元にじわりと涙が浮かんだ。



「えっ?莉奈さんっ!?どうかしたっすか」



怜は首を横に振る。



「今まで誰も早乙女莉奈を好きになってくれなかった。芸能人でアイドルの乙女乃怜しか…。でも耕平くんは違うんだね。初めてよ」


「莉奈さん…」



「でも耕平くんの心は綺麗過ぎて、私は釣り合わないわ。こんな汚れた私じゃ…」



笹島は無意識に怜へ手を伸ばす。

だが怜はその手から身を引いて逃れた。



「あたし…、行くね」



「あっ、ハイ。頑張ってくださいね」



怜は慌てたように玄関へ向かう。

笹島は客間へバタリと大の字に倒れ込んだ。



「俺、頑張ったよなぁ?精一杯頑張ったよ…」



自分の前から去っていく怜の後ろ姿が笹島の頭から離れる事はなかった。



「こうなったら、何が何でも幸せになってくださいっすよ。怜サマ」



スマホのホーム画面には笑顔の乙女乃怜がいる。

それをぼんやり眺める笹島の目から涙が一筋伝った。



「サヨナラ、早乙女莉奈さん。サヨナラ、俺の恋……」















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