第106話
「……怜サマ、またご飯残したんですか?」
「…………」
数日後の日曜日。
あれから何とか布団から起き上がれる程度には回復した怜だが、まだ口数も少なく、食事もまともに摂れない有様だった。
笹島は朝食の食器を下げる為に客間へ入ってのだが、それは手付かずのまま放置されていた。
浴衣姿の怜は笹島の呼びかけに気付く様子もなく、幽鬼のような顔でぼんやりと窓の向こうに広がる庭を眺めている。
まるで今にも儚く消えてしまいそうな姿に、笹島は思わず声をかける。
「あの、怜…サマ」
「…………」
やはり彼女からの反応はない。
怜は相変わらず庭を見たまま動かない。
そこで効果があるかわからなかったが、呼び方を変える事にした。
「………莉奈さん」
「……何よ」
「あ。喋った」
笹島は大袈裟に飛び上がる。
早乙女莉奈。
それが彼女の本名だ。
つまり、ここでは乙女乃怜ではなく早乙女莉奈だと言いたいのだろう。
「…………キライよ」
ポツリと呟かれた言葉に笹島が苦笑いを浮かべる。
言われなくてもわかっている事だったが、やはり「推し」の口から言われると堪える。
「あは…あははは。そっスよね。俺みたいなアフロの小太りに構われたくないっすよね。わかりみー…みたいな。じゃあ俺、向こうへ行って……」
「違うわ」
「へ?」
食器を乗せたトレイを持って、部屋を出て行こうとした笹島の背に声がかけられる。
振り返ると怜は布団をギュッと握り締め、俯いていた。
「あたしは絶対人を外見で見たりしない。だ
から違うの」
「莉奈さん?」
「キライなのはあたし自身。もう消えてなくなりたいのっ」
怜はそう言って顔を覆い、嗚咽を漏らした。
「えっ、あの、り…なさん?いや…どうしたら……」
泣いてる女の子を慰めた経験のない笹島はどうしていいのかわからず、ただバタバタと手を動かすしかなかった。
「ゴメンなさい。急に取り乱して…。少し一人になりたいの」
「あっ、勿論です。何かあれば飛んできますから」
「本当に?」
「あー、マジで飛べるかっつーと、それはアレなんすけど」
笹島がしどろもどろになりながら弁解していると、怜の口元に初めて表情が生まれた。
最推しの笑顔を間近に見て、笹島の胸が痛いくらい高鳴った。
「ねぇ、あたしのスマホ、知らない?」
「あ、それなら森サラが預かってます。しばらく外の刺激から遠ざけた方がいいって。何なら俺の貸しますけど?」
そう言って笹島は尻ポケットから自分のスマホを出そうとする。
「そういう事ならいいの。ふぅ…。でも何もする事がないわね。そういえば貴方は誰なの?」
「俺っすか?俺は笹島です」
つい何も考えず飛び出した頭の悪い答えに怜は顔を顰めた。
「……ここの家の人、皆「笹島」なんだけど?」
「あは…は。そっすね。俺、耕平っていいます。笹島耕平」
彼女とはファイナルツアー後の楽屋で一度会っていて、その時に自己紹介をしてサインももらったりしている。
だから正式には初対面ではないのだが、彼女は覚えていないのだろう。
「耕平ね。歳はいくつなの?」
「24っす」
「……そう。結婚してるの?」
「いえ独身っす」
一人にして欲しいと言っていたはずなのに、怜は様々な質問をしてきた。
笹島はそれが嬉しくて、問われるままに答えていく。
「じゃあ、恋人は?」
「いないっす。長い事…ずっと」
「ふぅん…長い事って何年くらい?」
「そうっすねぇ…大体24年くらいですかね」
怜の瞳が半眼になる。
「貴方、さっき何歳って言ってたかしら」
「24っす!」
怜の視線が痛くて、とりあえず元気に答えてみる。
「そ…そぅ。じゃあずっと片想いしてるような好きな人がいるの?」
「あ、はい。好きな人はいます」
笹島の顔が一気に綻んだ。
それを見て、怜は少し羨ましそうに目を細めた。
「そう。じゃあその想いが、いつか叶うといいわね」
「それは最初から期待してないんで。俺はその人が幸せになるのを見ていたいっつーか。その人の幸せが自分の幸せなんです」
その言葉に怜は目を見開いた。
長い睫毛に縁取られた瞳に光が宿る。
「あたしも……あたしもそんな風に考える事が出来たらいいのに。少し貴方が羨ましく感じるわ。笹島耕平さん」
「あの…笹島か耕平でいいっすよ。出会った頃のナユタみたいになるから。それから、俺の好きな人は乙女乃怜。アナタですから」
「あたし?」
笹島はコクコク頷く。
すると怜はため息を吐いた。
「貴方、趣味が悪いわね」
「なっ……何故に?」
まさか推しに推しを否定されるとは思ってもみなかった笹島は思わず身を乗り出す。
急に距離が縮まり、彼女の浴衣の袷から狂おしい程の色香を感じ、思わず喉が鳴る。
「別にいいのよ?」
何かを察したかのように怜が艶やかな視線を送ってくる。
「はい?あの、何が?」
初心な笹島はもうそれだけでタジタジだ。
「だから、貴方の好きにしても。だって好きなんでしょ?あたしを」
そう言って怜は笹島の手を掴むと、その手を自らの豊かな胸部へ導いた。
「のわぁぁぁっ!?」
指が沈むように柔らかな感触があった。
笹島は弾かれたように手を離し、言葉にならない言葉を叫び、そのまま大慌てで部屋を飛び出して行った。
「………何かしら。あの、今までにない初心な反応」
怜は何故か惚けたように、いつまでも彼が消えた廊下の方を眺めていた。
「はぁ…はぁ…はぁ。さ…触ってしまった」
廊下まで避難した笹島は自分の右手を凝視して固まっていた。
先程までこの手にあった感触が何度も蘇る。
「あのネットで買った、怜サマのおっぱいマウスパッドとは比較にならない、柔らかさと温かさ!」
笹島は右手を高々と突き上げ叫ぶ。
「決めた!俺はもう生涯、この右手を洗わない!」
すると、そこに母親が怪訝な顔で近づいてきた。
「耕平、またそんなところでぼんやりして。早くナユタちゃんの手伝いしな。人数増えたから食事の支度も大変なんだからね」
「…げっ。天使の後に鬼婆が出た…ぶはっ」
即座に平手が飛んだ。
全く笹島家の家族は容赦がない。
「つべこべ言わず、早く台所に行きな!それから行く前に手洗いもしっかりやりな」
笹島は両手を見つめ、ハラハラと涙を溢す。
「………あぁぁぁぁっ!嫌ぁぁっ」
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