第104話

暗い室内にアルコールと甘く饐えた体臭のような香りが漂う。


部屋の中は荒れ放題で、汚れた床に吐瀉物やアルコールの瓶が転がっている。



「早乙女さん…。もう俺にはこれ以上貴方を支える事は出来ないよ」



哀しげな顔で佐野隼汰は怜の顔に手を伸ばす。

この一か月、精神科から退院してきた彼女をずっと側で手助けしてきたつもりだ。


だが一向に彼女の心に再び熱が灯る事はなく、昼間から酒を飲み、妙な男達を引っ張り込む等、彼の献身を裏切る行為を繰り返した。


お互いもう限界だった。

壊れた心はもう戻らないのだろうか。


そんな佐野の震える肩に手が添えられる。

怜の所属事務所の人間だ。

彼は佐野が呼んだ。


彼はゆっくりと怜の前まで進むと、苦しげな表情を浮かべた。



「怜……。遂にここまで堕ちたか」



「…………」



ただ、部屋の中心にあるセミダブルのベッドだけは清潔で、その上には下着姿の乙女乃怜がぼんやりとした表情で座っていた。


その目の焦点はどこにも結ばれておらず、虚空を見ているかのようだ。



「事務所はキミを解雇する事に決めたよ」



「……いてよ」



「ん?何か言ったかい」



半開きの唇から何か言葉が漏れる。



「………抱いてよ。誰でもいいから」



怜の瞳から涙が一筋溢れた。



「可哀想に…。キミは少し休むといい」



肩にパサリと仕立ての良いジャケットが掛けられる。



「キミは普通の女の子に戻って、誰かもっと普通の男と幸せになった方がいい」



そしてパタンと扉が閉じられた。



「………誰でも…いいから」



「早乙女さん…」


 

      

        ☆☆☆




「はぁ〜。推しが尊いっ。怜サマ早く復帰して欲しいなぁ」



日曜日。笹島は実家のリビングで録画していた一週間分のトロピカルエースの番組を一気に見ていた。



今日は朝から両親がパークゴルフに出かけているので、母に咎められる事なく一日中見ていられる。



これが彼の一週間で一番の至福タイムだ。

笹島はヨダレを垂らさんばかりに画面に食いついて見ている。



「我が弟ながら、これは酷いな」



同じリビングで半ば強制的にそれを見せられている兄の祐悟はげんなりした様子でどら焼きを齧る。


テーブルにはナユタが練習で作った不揃いのどら焼きが山のように積まれている。

ナユタが毎日のように作った和菓子を持って帰るからだ。


そろそろ何とかしなければと、笹島はまた少し大きくなった腹回りを摩った。

このままではナユタより先に臨月のような腹になってしまう。



「何だよ。いいじゃん。これくらい。俺にはこれくらいしか楽しみがないんだよ。いいよなー。兄貴は可愛い可愛い妻がいて」



「…お前なぁ、いつまでもグズグス燻ってんじゃねぇ。いい加減立ち直れ」



「がはっ!」



すぐ様、兄の痛烈な踵落としが笹島の脳天に炸裂した。



「あらら。二人とも…。いい加減、止めてよね。今日は私のお客さんが来るんだから」



「お客さん?」



そこに兄の妻のナユタが台所から姿を見せた。

頭をおさえて呻く笹島は、顔を上げる。



「そうよ。耕平さんきっと喜ぶと思うなぁ」



「何で俺が?」



「ふふふ。今は内緒だよ」



ナユタはウキウキした様子で笑っている。

最近、彼女はすっかり綺麗になった。

よく笑うようになったし、痛々しいくらい細かった身体も今ではかなり改善された。


そして艶のなかった髪は綺麗に整えられ、後ろで柔らかくまとめて大人っぽい印象を与えている。


出会った頃からすると彼女は別人のようになった。

それを兄が変えたのかと思うと、笹島は少し淋しさを覚える。



その時、来客を知らせるインターフォンがメロディを奏でた。



「あっ、もう着いたみたい」



ナユタはパッと顔を上げると、玄関へ向かう。



「おい、なゆ太。走るなよ」



祐悟は身重のナユタを気遣い、一緒について行く。



「お客さんって、誰なんだろ。義姉さんに訪ねてくる友達いたんだな…」



そんな失礼な事を考えつつ、笹島はどら焼きを口に咥えながら二人のあとを付いていく。



「更紗姉さんっ、久しぶり」



玄関へ行くと、そこには信じられない光景が広がっていた。


笹島は思わずポトリと口からどら焼きを落とした。


「な…な…ななななな何でウチにトロエーの森サラが降臨してんの?何これ、ここは異世界なん?」



「耕平、煩いぞ」



祐悟が笹島の頭を小突く。

だがこれくらいで興奮はおさまらない。


「だって、兄貴、森サラだよ。モ•リ•サ•ラ!」


「あの…人をポテサラのように言わないでくれる?」



笹島家の玄関にはトロピカルエースのリーダー、森さらさが立っていた。


玄関には今まで嗅いだ事のない、良い香りがふわりと漂っていて、まるでそれがオーラのように感じられた。


さらさはナユタの全身を見て笑みを浮かべる。



「しばらく会わない間に随分見違えたわね。ナユタ。綺麗になった」



「うん。笹島家のみんなのおかげ」



そう言ってナユタは兄弟を振り返る。



「笹島さん、本当にありがとうございます。もっと早くご挨拶に伺うべきでした」



「いや、構わない。ウチの家族も気に入っている。特に母さんが女っ気がない家だったから喜んでいる」



そう言って祐悟はナユタの肩を抱き寄せる。

ナユタは幸せそうに頭を寄せた。



「更紗姉さん、もう家族じゃなくなったのにいつもありがとう」


「ううん。親が離婚しても私にとってはあなたはずっと妹だから」


二人の親の再婚で姉妹となったさらさとナユタだが、それも先月離婚が成立し、戸籍上はまた他人となった。


それでもさらさは今までの罪滅ぼしだと、様々な支援をナユタにしている。



「本当にもうウチに送金は結構ですよ。コイツはウチの家族になったんですから」



「ううん。しばらくはそうさせてください。今までずっとあの父と姉夫婦に搾取されてきて、貴方には何もしてあげられなかったから。…その、笹島さん。この子のお腹の子の事は……」


さらさは気まずそうに祐悟を見る。

祐悟は気まずそうにポリポリと頬を掻く。



「まぁ、親に言ったのは籍を入れてからで、言った途端、親父には何十発も殴られましたがね」


「まぁ…」


さらさは口元を覆う。


「まぁ、ウチは結構アバウトなんで、一度受け入れたらすぐ家族になっちゃうからね。大丈夫っすよ」


笹島はケラケラ笑った。



「あ、中に入ってくださいよ。そっか。義姉さんに会いに来たんすね」



突然のアイドルのお宅訪問に、フワフワした気持ちの笹島は何度も深呼吸を繰り返す。



「そうね、その前に忘れるところだったわ。ほら、貴方も中へ入って」


「?」


中へ入ろうとしたところで、さらさが何か思い出したように後ろを振り返った。


するとさらさの後ろに隠れるようにいたらしき人物が、おずおずと姿を現した。



「…………」



細っそりとしたシルエットに金髪の巻き髪がフワリと揺れる。



「あ…あ…あ……あぁちかはになちまなかはほらやはかあたぁぁっ!?」



「耕平さん?」



笹島は意味不明な叫び声をあげながら尻餅をつく。



「何でウチに怜サマがいんのぉぉっ!?」



さらさの横から現れたのは、乙女乃怜だった。

















   


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