第93話
人生は敗北の連続だ。
常勝の花道を歩んできたあの男とは住む世界が違う。
自分が泥水を啜り、底辺で這いつくばっているのを、あの男は楽しいショーでも見ているかのような目で見下ろしていた。
そんな男が、今更自分を好きだなんてふざけているとしか思えない。
思い返すとまた腑が煮え繰り返りそうになる。
乙女乃怜は、ゆっくりとベッドから降りてベランダに立った。
振り返ると、隣で眠っていた佐伯拓真の浅黒い背中が壁のダウンライトに照らされ、ぼんやり暗闇に浮かび上がっている。
彼はいつも気まぐれにやって来て、気まぐれに彼女を抱く。
大抵は酔っている事が多く、情事が終わるとすぐに去っていくのだが、今日は余程疲れていたのか、そのまま眠ってしまった。
冷たい夜風が、スリップ一枚の身体に突き刺さる。
空虚な心の隙間を埋める為に彼が必要だった。
だけど、どうしてだろう。
ますます心は冷えて、バランスを欠いていく。
その時だった。
部屋に来客を伝えるチャイムが響いた。
思わずビクっと肩が震えた。
こんな時間に誰だろう。
怜はガウンをしっかり纏い、インターフォンの前に立った。
その間も拓真は目を覚ます事はなく、気持ち良さげに軽いイビキをかいている。
「はい……。どなたですか?」
「あ〜、早乙女さん。ごめんね。こんな夜分に。そこに佐伯拓真いるかな?」
それはこのマンションの管理人だった。
大体夕方には帰ってしまう彼が、こんな夜にまでいるのは珍しい。
嫌な予感が胸に広がっていくのを感じながら、怜はゆっくり後ろを振り返る。
すると寝ていたはずの拓真が起き上がり、厳しい顔で着替えを身につけ始めていた。
「拓真…、どうかしたの?」
小声で問いかけると、拓真は慌てたように人差し指を唇に当てる。
「どうやらそこにいるようだね。早乙女さん。悪いんだけど、ここ開けてくれるかな」
「えっ?」
するとインターフォンのモニター越しに警察手帳が突き出された。
怜の瞳が驚愕に揺れる。
「ちょっとごめんね。開けてもらえる?佐伯拓真に令状が出てるんでね」
「!」
怜の身体から力が抜けていった。
言われるままに震える手でチェーンを外し、ドアを開けると警官が二名入ってきて、暴れる拓真を一気に抑え込み、連れ出していく。
嵐のような出来事だった。
「大丈夫かい?早乙女さん。怖かったね」
残された管理人が労るように、床に落ちたブランケットを肩にかけてくれた。
「一体何があったんですか?」
「あの男、大麻所持でずっと警察にマークされてたみたいだね。あんたの他にも女が沢山いたようで、家宅捜索が始まってるそうだよ」
「そんな……」
「もうすぐあんたのマネージャーさんとやらが来るはずだから、着替えたら下の管理人室においで。詳しい事情は彼から聞くといい」
管理人はそう言って、去って行った。
怜はまだ呆然としたまま床に座り込んでいた。
「何で…何であたしばっかり……こんな目に…」
☆☆☆
「はぁ〜、やっぱ怜サマ、最高だわ」
その頃、笹島は録画していたテレビの音楽番組を見て歓喜に沸いていた。
番組は先日ファイナルを迎えたトロピカルエース、一周年記念ツアーのダイジェスト版を放送したものだ。
それを笹島と一緒に眺めていたナユタは自分のささやかな胸元をじっと見下ろす。
「耕平はいやらしいね。ヨダレ出てた」
「はぃぃっ?いや。確かに否定は出来ないけど、俺の目、そんないやらしかった?」
ナユタはコクンと頷く。
「ずっと乙女乃怜の乳房ばかり見ていた」
「ちぶっ……そんな見てないと思ったけどなぁ。チラ見くらいで」
「じーっ」
笹島は視線を泳がせながら弁解を試みるが、無垢な瞳には勝てない。
「スミマセン、めっちゃ見てました。俺はいやらしいヤツです」
「耕平、正直だね。いい子、いい子〜」
ナユタは無邪気に笹島のアフロを撫で撫でする。
「……微妙な気分。しかし、森さらも怜サマも体調不良で無期限休養って、トロエー大丈夫なんかな」
笹島はスマホのニュース画面をそっと閉じた。
そこには映画監督の長男の逮捕とトロピカルエースの二人の活動休止のニュースが掲載されていた。
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