第86話
「………で、その顔は何なんだ?」
夕陽はため息混じりに、リビングのフローリング上で正座しているみなみを見下ろした。
その頬は痛々しいくらい赤く腫れあがっている。
人気アイドルが頬を腫らせて帰ってきた。
これはどういう事なのだろう。
秋海棠一十の話では、あの熱意報道の事情を事務所で話した後、森さらさは失踪したそうなので、多分彼女の頬の腫れはそれに関係したものだと思う。
「別に〜。大した事じゃないよ。ただちょっとわかり合う為に拳で語り合っただけー」
みなみは腫れた頬を見せないようにプイと横を向く。
「一昔前のヤンキー漫画か!そんな嘘が通用すると思うなよ」
「ちっ…」
「舌打ち禁止っ」
どうやらその辺りの経緯を詳しく話す気はないらしい。
ただ、みなみはさらさが自分たちの関係を知ったとだけ伝えた。
「はぁ…。あまりの剣幕に「親父にもぶたれたことないのに!」って言い損ねたー。悔しーっ」
みなみは正座したままバタっと後ろに倒れた。
「そこかよ!だが残念だったな、みなみ。お前はまだ若いからよく知らずにその台詞を覚えているようだが、実際その台詞は主人公が2回目にぶたれた時に言ってるんだよ。だからその台詞の前に「二度もぶった!」が入るんだよ。ふはははっ」
「……もう、どうでもいいよ。そんなの」
「…だな」
急に冷静になった後で襲ってくる、猛烈な恥ずかしさをやり過ごそうと、夕陽は片手で顔を扇いだ。
つい、みなみのペースに乗ってしまう夕陽の悪いクセだ。
「まぁ、二人に何があったかまでは聞かないよ。だけど森さんの行方は本当に知らないのか?」
「うん。自宅にも居ないし、友達のとこも全滅だって…。内藤さんがスケジュール調整に追われて泣きそうになってた」
「うわ…何か申し訳なく思うよ」
トロピカルエースは今や誰もが知る旬のアイドルだ。
その仕事に穴を開けるような事になってしまい、原因の一端を担う夕陽としては心苦しい。
「でも夕陽さん、そこから森さんに行くのはナシだからね。何か夕陽さんって雰囲気に流されちゃいそうだからなー。すぐ泣くし」
「おい、最後のは何だよ。俺は今ま一度たりとも彼女がいた時に浮気なんかした事はないからな」
それは本当だった。
過去、交際中の彼女がいた時に、別の女子から告白を受けた時も、夕陽は彼女を裏切る事はなくしっかり断ってきた。
硬いだの重いだの言われようが構わない。それが恋人への礼儀だと思ってきたからだ。
その考えは今も変わらない。
「まぁ、逆に俺が彼女に浮気されて終わったけどな…」
「プププっ、ダサっ!」
「悪かったな」
思い出したくもない苦い思い出に夕陽は唇を噛んだ。
「でもさぁ、森さん相当ショックだったんだろうね」
みなみは腫れた頬に手を当てる。
「……だな。早く出てくるといいな」
今頃、さらさはどこで何をしているのだろう。
一人きりで苦しんでいないといいが…。
そんな事を考え、二人はたださらさの無事を祈った。
「その頬、早く冷やした方が良くね?」
☆☆☆
一方、笹島は兄の勤め先である和菓子屋へ来ていた。
「いらっしゃい。耕平♡」
カウンターにはシックな和装メイドのような制服を着たナユタが笑顔を浮かべて立っている。
「何で、兄貴の職場にナユタがいんだよ!」
笹島はアフロを掻きむしり兄に怒鳴った。
しかし兄は面倒くさそうにチラリとこちらを見て欠伸をした。
「お前は一々ガタガタうるせぇなぁ。なゆ太がやりたいって言うから連れてきたんだよ」
「耕平、怒らないで。私が頼んだの。見て、和菓子ってとても綺麗なんだよ。私も作ってみたいけど、まだ無理だって言われて、レジやってるの」
そう言ってナユタは色とりどりの和菓子を笹島に見せた。
「ナユタはそんな事しなくてもいいんだよ。
あれからナユタの兄の藤森薔薇は、余程笹島家が気に入ったのか、ナユタが心配だと言ってずっと入り浸っている。
一応兄として二人分の食費は母に渡しているのを見たが、それでも図々しい事には変わらない。
しかしナユタは子供のように無垢な笑顔を向けて笹島の手を取る。
「いいの。私がやりたいの。だから耕平は心配しないで」
「ナユタ……」
店の制服を着たナユタはとても可愛らしい。
最近はよく食べるようになったので、病的な細さや血の気のなかった顔色もかなり改善されてきた。
この店には店長と兄、パートの64歳の女性しかいないので、急に現れた看板娘の登場に僅か数日で売り上げが伸びたそうだ。
「……わかったよ。ナユタが楽しいって言うなら」
「うんっ。ありがと。耕平」
「わわっ…あっ…あわわ、ナユタ?」
ナユタはギュっと笹島に抱きつく。
不意打ちのような異性からの接近に、慣れない笹島はどうする事も出来ず、ただ顔を赤らめて両手をバタバタさせている。
だがナユタの方にそんな熱量はなく、親子か兄弟へ向ける親愛を感じた。
遠巻きにそれを見ていた兄、祐悟はやや顔を顰め、ため息を吐いた。
☆☆☆
「おい耕平。お前、あの子をモノにしたかったらな、はっきり口にしなくゃ、いつまでも伝わらねぇぞ?」
急に話があると兄が笹島を裏手に誘うと、説教が始まった。
「はぁ?何だよ。それ。モノにって、言い方あるか。別に俺はそういう意味で…好きってわけじゃ…」
そう言っている側から笹島の顔は赤くなっていく。
祐悟は再びため息を吐いた。
「いいか、相手の方からって都合の良い考えは捨てた方がいい。あの手のタイプは絶対勘違いしない直球の告白をしなくちゃ伝わらないぞ。いつまでも親愛や友愛レベルのままだ。それで満足そうな今のなゆ太を見てりゃ、わかるだろ」
「………うぐっ」
「まぁ、すぐにしろとは言わねーよ。お前のタイミングでいい。だけどする時は曖昧な言い方はするなよ?」
「わかったよ…、ちぇっ。兄貴面しやがって」
笹島は憎々しげに兄を見た。
しかし恋愛方面では兄には敵わないのは確かだ。
四つ上の兄は離婚歴がある。
相手はアメリカ人の女性だった。
まだ学生だった笹島は、兄が家に連れてきた外国人の恋人にドキドキしていたのを覚えている。
彼女からは今まで嗅いだ事のない強い香水が漂っていた。
彼女が去った後もしばらくその香りが残り、初心な笹島の脳を痺れさせた。
しかし結婚してすぐに二人は離婚した。
彼女のお腹の中には新しい命が宿っていたが、出産する前に彼女は国へ帰ったという。
その理由を笹島は知らない。
両親には説明くらいはしたのかもしれないが、兄は自分には話してくれなかった。
それから少し兄に対し、不信感が宿ったのかもしれない。
笹島は兄に背を向け、ナユタの元へ行こうとする。
「おい、耕平」
「はぁっ?まだ何かあんのかよ」
ぶっきらぼうに返すと、兄は意外にも真剣な顔をしていた。
「これは俺の勘のようなものだが、あいつ身体も中身もガキのようだけど、男を知ってるぜ」
「なっ……」
一気に笹島の顔がゆでダコのようになる。
「下世話な話じゃねぇよ。真剣な話だ。当然あの様子じゃ合意はあり得ねぇよな。なら意味はわかるだろ?」
「………兄貴」
兄は軽く笹島の肩に手を置いた。
「ま。俺の言いたい事はそれだけだ。早いとこ告白しろとは言ったが、その辺りをよく考えて行動しろ」
そう言って兄は店に戻って行った。
「……告白ってどうやるんだ?」
☆☆☆
その後、夕陽に森さらさの消息が判明したと秋海棠一十から連絡が入った。
「森さん、山籠りしてるってさ」
「え、何で?何で山なの?」
みなみは困惑の表情を浮かべた。
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