第84話
「ええと……ここで間違いないな」
昼休みに喜多浦陽菜へ、森さらさの件で相談がしたいとメッセージを送ると、意外なくらい早く返事が返ってきた。
メッセージには今日の19時に自宅へ来て欲しいとあり、簡単な地図の画像と住所まで添付されていた。
こんな簡単に人気アイドルの自宅へお邪魔してもいいものだろうか。
もしかして自分は騙されているのかもしれない。
一瞬そんな考えが過ぎったが、あの時の陽菜な様子からは、そんな気配はしなかった。
ただ本当にグループの事を考えているように思えたので、夕陽はこうして指定されたマンションの前に立っていた。
陽菜の自宅は青山にあり、その中でもかなり高級マンションに分類するクラスの建物だった。
入り口には管理人のおじいちゃんではなく、屈強なガードマンまで立っている。
きっと住人はかなりセレブな人間が入居しているのだろう。
夕陽がビクビクしながら中に入ると、広いロビーには受付まであり、そこで軽い手続きをすると住人からの許可が下り、そこでようやく部屋へ入る事が出来るのだ。
かなりしっかりしたセキュリティだ。
毛足の長い絨毯の敷かれたロビーからエレベーターに乗って、最上階へ上がる。
どうやら陽菜の住まいは最上階丸ごとなようだ。
「すげぇ……。こんなの見た事もないぞ」
エレベーターから見える夜景を眺めながら、夕陽は感嘆の声をあげた。
やがてエレベーターは目的の階に着いた。
絨毯を踏みしめながら進み、壁の呼び鈴を鳴らした。
「はい。開いてますよ。白い扉からどうぞ」
「あっ…。はい。わかりました」
応じた声は陽菜ではなく、落ち着いた印象の男性の声だった。
夕陽は中央にある白いドアを開けた。
「わっ……。凄いな」
中は30畳程あるフロアが広がり、そこには大きな白いグランドピアノが置かれていた。
「いらっしゃい。ええと……誰だったっけ?」
「えっ?あ…貴方はもしかして「on time」の秋海棠一十…さんじゃないですか」
出迎えた人物の正体を見て夕陽は息を呑んだ。
そこに立っていたのは「on time」の秋海棠一十だった。
まさかこんなところで本物に出会うとは思わなかったので、思わず足がすくんだ。
陽菜の姿はないようだが、どうしたのだろう。
「うん。実は陽菜ちゃんに頼まれてね。ボク、こういうの慣れてないから、あまり頼りにならないと思うけど…」
「あぁ、いえそんな…。あの、初めまして、真鍋夕陽です」
ようやく夕陽が自己紹介すると、一十は柔らかな笑みを浮かべた。
「はい。初めまして。ボクは秋海棠一十です。あ、ちょっと待ってね。お茶を淹れるから…あれ、どこにあるのかなぁ」
一十は広いキッチンをウロウロしている。
その様子はまるで、奥さんの不在時、食器の場所すらわからない生活能力ゼロの旦那の体だ。
「あ、あの…、お茶は別に結構ですよ」
「いやいや、お客に満足にお茶も出せなかったなんて事になったら、後でボクが陽菜ちゃんに怒られるよ。あ、もうコレでいいか」
しばらくキッチンの様々な棚を開けまくり、ようやく一十が何かを持ってやって来た。
もう片方の手には電気ケトルが握られている。
「どうもお手数かけて……す…?あれ、これカップ麺じゃないですか」
何とテーブルに置かれたのは、コップ型のカップ麺だった。
思わず夕陽はそれを凝視する。
「ゴメンね。お茶の場所がわからなくて。代わりにこれをどうぞ」
「客にお茶でなく、カップ麺出す人初めて見ました」
「まぁ、まぁ。ボクも食べるから一緒に食べよう」
「はぁ……」
何でこんな大物芸能人と自分が呑気にカップ麺を食べる事になったのやら。
夕陽は恐縮しながら容器に沸かした湯を入れてもらった。
「秋海棠さんでもカップ麺食べるんですね」
「勿論食べるよ。だって家事能力ゼロのボクにだって簡単に作って食べられる物ものだからね。常に常備してるよ」
一十は嬉しそうに麺を啜る。
「はぁ…そうなんですか」
「あ、そうそう。キミはどんな音楽が好きなの?」
「はい?あぁ、最近はイギリスのハードロックを良く聴きますね」
そう言っていくつか気に入っているバンド名を挙げていくと、一十は大きく頷いた。
「ふむふむ。いいね。いい趣味してるよ。それにビジュアルもいいし。インスピレーションが浮かぶよ」
「???」
「そうか…うん。じゃあその路線で作ってみるかな。で、いつ頃デビューしたいの?」
「はい?あの…。何の事ですか」
何となく話が噛み合わない。
すると一十はあっさりと告げた。
「何って、キミの歌手デビューの話だよ」
「何事ぉっ!?」
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