第70話

「いやぁ、今日は人生最高の日だったなぁ」


トロピカルエースのライブが終わり、楽屋訪問も無事に済んだ夕陽と笹島は、いつもの居酒屋で軽い打ち上げをしていた。


冷たいビールジョッキを一気に煽った笹島は、気持ち良さげな赤ら顔で、貰ったサイン色紙をうっとり眺めている。



「それ、後藤継利のサインじゃないか。男の…それもオッサンのサインなんて、何でお前が持ってるんだ?」



「ふっふっふ。甘いな。夕陽。それだけじゃないんだぜ。これを見ろ」



笹島はリュックの中からもう一枚、色紙を取り出して夕陽に見せた。

受け取った夕陽は、それを見て驚いた。



「栗原……柚菜?おい、いつの間にこんなの貰ったんだよ」



色紙に書かれた独特なサインは、確かに栗原柚菜とある。

夕陽は偽物か本物か吟味するように、じっくり見つめる。



「本物か?」



「たりめーよ。実はお前が中々戻らないから、怜サマとエナちがゲストルームへ行って挨拶のついでにサイン貰って来てくれたんだよ。何と今日のライブ、ゆっずーも見に来てたんだぞ。……まぁ、エナちのパパンのサインは想定外のおまけだったけど、これは父さんにでもやるよ」


実は栗原柚菜だけにサインを頼んだのだが、

何故か一緒にいたエナの父親までサインを書き始めた為、断るに断れなかったという事情がある。


「それにしても、今日はマジで夢のような一日だったよなぁ。あ〜、怜サマめっちゃ素敵だった」


「それは良かったな」


笹島は幸せそうにサインを見つめ、ビールを飲んでいる。

夕陽はぼんやり、森さらさの事を考えていた。


彼女はもしかしたら自分に対し、特別な想いを寄せているのかもしれない。


よく考えれば何度か「そうなのでは?」と思う場面はあった。

しかし相手は芸能人で、みなみと同様、トップアイドルだ。


そのような世界の人間が二人も自分に好意を寄せるものだろうか。



「………………」



疑問は絶えないが、陽菜から言われた警告はずっと夕陽の頭からこびり付いて離れなかった。



        ☆☆☆



その夜、全ての撤収作業を終え、スタッフ関係者を含めたファイナルツアーの成功を祝う打ち上げが、都内のクラブハウスで行われた。


メンバー達、一人ずつ挨拶し、その後はスタッフ達がそれぞれこのツアーでの思い出や苦労を語っていく。


特に音響監督である伊藤はこれが最後の仕事なので、彼の最後の挨拶が回ってきた時はさらさが途中でわんわん泣き出すハプニングもあった。


そんな中、怜は荷物を抱えてマネージャーと共に帰り支度を始めているのが見えた。


それに気付いたみなみはオードブルの皿を両手に持って、怜に近づく。


「あれ、早乙女さん。もう上がるんですか?」


「あら、見つかっちゃった。えぇ、実は新居で犬を飼ってるの。まだ手のかかる仔犬だから早く帰らなきゃならないのよ」


怜はイタズラが見つかったようなバツの悪い顔で笑う。


「わぁ〜、そうなんですか。今度写真見せてください」


「えぇ。今度ね」


「では今日はお疲れ様でした。あ、明日から数日オフですよね。早乙女さんはどうするんですか」


みなみはローストビーフをモグモグやりながら楽しそうに聞いてくる。


「……そうね。引越したばかりだから荷物の整理でもするわ。そっちはどうするの?」


「私はまだ特に何をするかは考えてないんですけど、夕陽さんの誕生日が近いから何かしたいなって思ってます」


「あらら。それはご馳走様」


「ちょっ……早乙女さん〜」


「ふふっ。冗談よ。それじゃお疲れ様。また次の現場で会いましょう」


「はい。お疲れ様です。次の現場って、また地方ロケなんですよね。船で伝説の巨大魚を探すヤツ……」


思い出したのか、みなみがげんなりと肩を落とす。


「あたしも似たようなロケよ。それじゃそれまで英気を養う事にしましょ」


そう言って怜はマネージャーと去って行った。


クラブハウスを出たところに一台の高級車が横付けされていた。

怜はゆっくりとその車に近付く。


「よぉ。遅かったじゃねーの」



スモークガラスの窓が降りて、中から金髪にガラの悪い笑みを浮かべた若い男が顔を覗かせる。


「ごめんね。ちょっと出るのにもたついて」


「いいから乗れよ」


「…うん」



彼は佐伯拓真という映画監督の長男だ。

親の七光りで17歳の時に銀幕デビューしたものの売れる事はなく、そのせいか私生活も荒れて何度か警察の世話になっているような男だ。


怜はマネージャーから荷物を受け取ると、おずおずとその助手席に座ろうとする。



「乙女乃さんっ!」



その時、同じクラブハウスの出入り口から佐野隼汰が現れた。

彼は厳しい顔つきでこちらへやって来ると、マネージャーを押し退け、怜の腕を取る。


「ちょっと。佐野さん、何を……」


突然の事に戸惑いを隠せない怜は、隼汰の密着から逃れようと身を捩る。



「乙女乃さん、こいつはダメですよ。この男は……」


隼汰がそこまで言った時だった。

目の前の隼汰の身体が文字通り吹っ飛んだ。


「きゃっ……」


思わず両手で顔を覆う怜。

隣を見ると、地面に倒れた隼汰を睨みつけるように車から降りた佐伯が立っていた。


「はぁ?何なんだよ。テメェは。いいか、こいつは俺の女なんだよ。勝手に触んな」


そう言って佐伯は見せつけるように怜の胸を鷲掴みにする。



「くっ……」


苦痛に怜の顔が歪む。



「乙女乃さん、……ダメだ。…戻って」



「うるせぇなぁ。もう行くぞ。お前も早く乗れよ」



佐伯は舌打ちしながら怜を助手席へ押し込むと、物凄い勢いで走り去っていった。


隼汰は切れた唇にこびり付いた血を乱暴に拭う。


「………乙女乃さん、何で」



そして、隼汰はまだショックを受けて固まっている怜のマネージャーを助け起こし、ゆっくりとクラブハウスへ戻った。




















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