第65話
「いよいよ明日はファイナルだね。緊張してない?」
「いえ、もう慣れましたから」
面会謝絶の札が下げられた病室では、秋海棠一十がベッドに半身を起こし、ノートパソコンでこれまでのトロピカルエースのライブ映像を確認していた。
明日はトロピカルエースのデビュー一周年を記念したツアーの集大成となる最終公演の日だ。
デビューした3月から4月までが前期。
その後、7月から8月までを後期とする計4ヶ月のツアーは全部で17公演に及ぶ。
まさにお祭りのようなツアーだった。
その中で森さらさの25回目のサプライズバースデーのイベントが開かれたり、海外メディアから初の取材を受けたりと様々な事があった。
一十と一緒にその映像を眺めながら、喜多浦陽菜は軽くため息を吐いた。
「陽菜ちゃん、やっぱり疲れてるんじゃない?明日は大事な日なんだから、もう帰って休んだ方がいい」
今日も朝からライブの最終的なリハーサルでヘトヘトなはずだ。
心なしか、その横顔は青白く見える。
一十は心配してそう言ったのだが、陽菜は首を振る。
「もう少しだけ……もう少しだけ、ここにいさせてください。私なら大丈夫ですから」
「僕は別に構わないけど、その代わりちゃんと時間になったら帰るんだよ?チーフマネージャーには連絡した?」
「はい。外で待ってる…と」
一十がこのような形で入院してから陽菜は、まるで出会った頃の彼女に戻ったかのように笑わなくなった。
勿論、仕事の時は別だが、こういうプライベートな場で彼女の笑顔を見なくなった。
一十は陽菜の頬に手を伸ばす。
「一十…さん?」
「ごめんね。陽菜ちゃん。怖い思いをさせちゃったね」
陽菜の瞳が一瞬揺らぐ。
「……また一人に戻るんだって思ったら、どうしたらいいのかわからなくなったんです。夜、一人きりの家に帰るのが怖くて」
一十は静かに陽菜を抱き寄せる。
穏やかな心音に陽菜の心が満たされていく。
「大丈夫だよ。僕はいなくならないから。陽菜ちゃんを一人きりになんてさせないよ」
「……はい」
優しい言葉で宥めてくれても、きっと一十はいつかは離れていくだろう。
何の未練もなくあっさりと。
彼は背中に羽の生えた人だから。
だからそんな日がいつ突然やってきてもいいように、心の準備をしておこうとする。
しかし、その日を想像するだけで陽菜の指先は冷たくなり、胸が苦しくなる。
「きっと生き方が下手なんだ。君も……そして僕もね」
「…………」
☆☆☆
「ちょっと待って下さい、乙女乃さんっ」
リハーサルが終わり、首筋に浮いた汗を拭いながらマネージャーと一緒に着替えに戻る途中、乙女乃怜は佐野隼汰に呼び止められた。
怜は盛大に顔を顰める。
彼は今回のツアーのサポートメンバーの一人だ。
リハーサル中も、ずっとこちらをチラチラ気にしていた事は気付いていたが、敢えてそれを無視していた。
なるべく彼と接点を持たないよう行動していたのだが、まさかここで声をかけられるとは思わなかった。
思わず舌打ちしたい気持ちを押し込め、怜は振り返った。
「あら、何かありましたか?」
「乙女乃さん、少し俺と話しましょう」
怜は弾かれたように彼の顔を見上げる。
憎たらしいくらい精悍で爽やかな風貌をしている。
昔、ずっと彼の事が好きだった事を思い出す。
恋のおまじないの本を買って、彼の名前を書いた消しゴムを最後まで使い切ったり、枕に彼の写真を入れて眠ったりもした。
自分もそんな普通に恋する少女だった。
ただ、あんな醜い容姿ではなかったら、運命はどう変わったのだろう。
「貴方とお話する事なんて私にはありませんから」
例の辛辣な言葉に、横でマネージャーが不安そうな顔をしている。
「乙女乃さんにはなくても俺にはあります」
「貴方もしつこいですね。もう今日は疲れているんです。それに明日はファイナルなんですよ。お話ならその後にしてください」
強い意思を込めてそう伝えると、隼汰は唇を噛みしめた。
「………わかりました。では話はその後にでもお願いします」
隼汰は軽く礼をすると、足早に去って行った。
「いいんですか?あれ………」
マネージャーがその様子を見て呟く。
「ええ。いいの。その内、自分で何とかするから」
「だったらいいんですけど、その前に何かあったら必ず言ってくださいね」
「ありがとう。そうする」
怜はそう言って控室に戻り、スマホを確認する。
画面には数人の男友達からの誘いのメッセージが届いていた。
俳優、映画監督の息子や、プロのサッカー選手等、錚々たる面子だ。
それは様々な場で怜が広げてきた人脈の成果のようなものだ。
「早く次を見つけないと………」
頭に浮かんだ隼汰の笑顔を振り払い、怜はスマホを操作する。
☆☆☆
「明日は楽しみだねぇ、夕陽さん」
「ん?あぁ、そうだな…って、まだ寝てなかったのか」
一緒にベッドに入って数時間、みなみに背を向ける形で本を読んでいた夕陽は、ゆっくり身体を回転させる。
「だって、すぐ寝ろって言われても寝られるわけないじゃん」
「お前は遠足前日の小学生か」
「ワクワクするよね〜」
夕陽は読書用の眼鏡を外し、サイドテーブルに置くと、手足を子供のようにバタバタさせているみなみを抱き寄せた。
「はい、良い子は眠ろうな〜。いい子。いい子」
猛獣をあやすように撫でていく。
「ちょ…と、もう。明日は私をずっと見ていてね。夕陽さん」
「はいはい」
やがて穏やかなみなみの寝息が聞こえ始めると、夕陽も安堵したように瞼を閉じた。
「おやすみ。みなみ。明日は頑張れよ…」
☆☆☆
「う〜ん。明日は王子が来るのよね。あまりトロエーに興味なさそうだったのに来るなんて…やっぱり私の事……いやいや。期待しちゃダメよね」
乙女乃怜が帰った後の控室で森さらさは、一人、明日のセットリストの確認をしていた。
しかし思い出すのは折り畳み傘の王子の事ばかりで、全然集中出来ない。
「あれ、森さん。まだ帰ってなかったんですか?」
そこにすっかり帰り支度の終わった後島エナが顔を覗かせた。
「あっ…えぇ。もう私も帰るわ」
トコトコやって来たエナは、さらさの手元の資料を見て呟く。
「森さん真面目ですね〜」
「そんな事ないわ。ただ何があるかわからないから色々自分の目で確認したくてやっているの」
さらさは会場全体の設備等の図面までチェックを入れる。
非常口の位置やその他の侵入経路をスタッフ並みに把握している。
それは何でも自分で確認せずにはいられない性格のようなものだ。
「やっぱり真面目さんだ」
「もう。本当にこんなの大した事じゃないわ。それよりエナは帰らないの?」
「帰りますよ。この後、深夜までやってるジムに行くので車待ちなんです」
するとさらさが顔を引き攣らせる。
「こんな消耗した後でよくジムなんて行けるわね……」
「一日でもサボるとお尻とか下がってきちゃう気がして」
そう言ってエナはショートパンツに包まれたお尻を両手でギュッと持ち上げる。
「そういうものなの?まだ若いんだし、何もしなくてもあなた達の年齢なら大丈夫じゃないの?」
さらさは少し気になってきた脇腹周りの肉を摘まんでみる。
「……私もジム行こうかな」
「是非是非。お父さんの知り合いが経営してるジムなんで、融通効くしオススメですよ」
エナは笑顔を浮かべる。
するとエナのスマホにメッセージが入る。
「あ、車の準備出来たみたい」
「そうなの?じゃあまた明日ね。ジムは程々に頑張って。お疲れ様」
「あざっす!お疲れ様でした。あ、そういえば明日、みーちゃんの彼氏さんが挨拶に来るみたいですよ」
カバンを持ち上げ、控室を出ようとしたエナは思い出したように再び顔を覗かせる。
「彼氏?あの子、そんな相手いたの?」
さらさは目を見張った。
「はい。去年から付き合い始めて…」
「どんな人?」
多少食い気味にさらさが迫ってきたので、エナは気圧されながらも口を開く。
「い…一般の人でしたよ。会社員」
「へぇ。いつの間に。その言い方だとエナは会った事があるの?」
「はい。去年みーちゃんと彼氏さんとでクリパしましたもん」
「………まぁ。それってお邪魔だったんじゃないの?」
何となく恋人がいた事のない自分でも、それはわかった。
だがエナは無邪気に笑う。
「でも楽しかったからオッケーでしょ♡」
「……ふぅ。貴方ねぇ」
しかしあの男性恐怖症のようなみなみに恋人が出来ていたとは驚きだった。
「そんじゃ、森さん。明日は頑張りましょうね」
「ええ」
エナは軽く頭を下げると控室を出て行った。
「……一般男性ねぇ」
こうしてそれぞれのライブ前日は更けていった。
明日はいよいよファイナル当日である。
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