第61話「XXXside*ひとりぼっちの小夜曲*」

唄うような雨音に混じってピアノの旋律が聴こえる。


蒼はベッドからゆっくりと半身を起こす。

それと同時に、ほんの少しの疼痛と気怠さが身体を巡り、夢を見る事で忘れかけていた現実を思い出させる。


痩せた手の甲に刺さる煩わしい点滴の針を勝手に引き抜くと、蒼はピアノの音を頼りに病室を出た。



「あっ。先生、どうしたの?」



病室を出ると、廊下の椅子に座って漫画の本を読んでいた少女がすぐに駆け寄ってきた。



「ちょっとピアノが聴こえたから。エナは聴こえなかった?」



「ううん、聴こえなかったよ」



長い栗色の髪をツインテールに結い上げた可愛らしい少女は後島エナといって、蒼より二つ年上の「お友達」だ。


そのエナは何故か年下の蒼の事を「先生」と呼ぶ。


何故かと聞くと、エナは無邪気に笑って「私が知らない事をたくさん知ってるから先生なの」…と言った。


物知りなのは病気で満足に身体を動かす事が出来ないから、静かに本を読む事しかする事がなかったからだ。


そう言ってもエナは先生は先生だと言って聞かない。


「もしかして、向こうの特別病棟の人かも」


「え、そんな遠くから聴こえるかな?」


「聴こえるよ〜。だって私、挨拶したもん」


得意げに胸を張るエナ。

年上だけど、この幼げな仕種が蒼にはとても可愛いく感じる。


「挨拶?エナ、向こうの病棟の人ともう仲良くなったのかい?」


「うん。そうだけど?でもすごくいい人だったよ。お菓子もいっぱいくれたし」


「…………全く。エナには驚かされてばかりだよ」



        ☆☆☆ 


社交的なエナはすぐに誰とでも仲良くなる。

思えば蒼と知り合ったのも、エナが蒼の病室に迷い込んだ事から始まった。


当時プロ野球選手だったエナの父親、後島継利は引退と同時に見合い結婚し、奥さんを連れて生まれ故郷である宮崎へ移住した。

そこで誕生したのがエナだ。


野球選手にしては晩婚だった継利は、一人娘を溺愛した。

それからエナが幼稚園に上がるまでは宮崎でアマチュアリーグの監督や、各学校への講談をしていたが、野球界のレジェンド達が集い、芸能人たちとゲームをするという全国ネットの番組出演で、継利の辿々しい小ボケの効いたキャラクターが大受けし、再び世間の注目を浴びた。


そこから継利は妻子と共に宮崎を出て、東京でタレント活動をする事になる。


その後、急速に仕事が舞い込むようになり、継利は分刻みのスケジュールを黙々とこなした。

結果、タレントとして復帰し、二年目を迎えた頃、胃に潰瘍が出来てしばらく入院する事になった。


当時継利が入院していた病院が、ちょうどエナの通う小学校の近所だった事からエナは毎日のように見舞いにやってきた。


エナが霜國蒼(しもくに あお)の存在を知ったのは、蒼が生まれてから三度目の大手術を受けた数日後の事だった。


生まれつき心臓に疾患がある蒼は、学校へ行く事も出来ず、長い時間を病院で過ごしていた。


実家に帰れるのは年に二、三回。

それも体調の良い時だけだ。


気持ちは前へ向いていても、身体がついていかない。

今回の手術は心臓に血液を送る太い血管を拡張するもので、六時間もかかった。

この心臓はいつまで保つのだろう。


自分がこの先、生き残るには心臓移植しかない。

しかし、そこまでして自分に生きる意味はあるのだろうか。


蒼はいつもそんな事を考える少年だった。

そんな鬱々とした気持ちから逃れる為に、蒼はいつも本を傍に置いた。


両親や友人たちから贈られた本は蒼の宝物だった。

その日もまだ本調子ではなかった蒼は、病室で静かに本を読んでいた。

その時だった。



「とーちゃん、いる?」



突然元気のいい女の子の声が響き、ゆっくり扉が開いた。


「とーちゃん?誰かな」


その声に本から顔を上げて、蒼は女の子の顔をじっと見た。


知らない女の子だった。

年齢は自分より少し上かもしれない。

病気とは無縁の溌剌とした鳶色の瞳に、健康そうな歯並びが覗く口元は優しげだ。


ヒマワリの柄のTシャツにオフホワイトのショートパンツから伸びた足はスラリと長い。


とにかくこれまで蒼が見てきた女の子のどれにも当てはまらない、元気の塊のような子だった。


その少女は、蒼を見ると気まずそうな顔で後ずさりする。


「やだ。ごめんなさい。病室間違えました」


「ふふふっ。とーちゃんってキミのお父さん?」


「う…うん。そう。もうお爺ちゃんみたいだけど、お父さんなんだ」


「お爺さんのようなお父さん?面白いね」


思わず笑うと、彼女も嬉しそうに笑う。

笑うと可愛らしい八重歯が見えた。


「私、エナ。後島エナ」


「ボクは霜國蒼」


「シモクニアオかぁ。ねぇ、どんな字書くの?」


エナは興味津々でベッドに駆け寄る。

蒼は何だか擽ったいような気持ちで、ベッドの横にある引き出しからノートと万年筆を取り出し、ゆっくり「霜國蒼」と書いた。


「難しい字だね」


「そう?ボクはもう慣れちゃったから」


手元を覗き込むエナの顔が近くて少し焦る。それを誤魔化すように蒼は読みかけの本を手にした。


「難しそうな本だね。名前も難しい字だし、シモクニは難しいのが好きなの?」


「いや、別に好きなわけじゃないよ。それに名前はボクがつけたわけじゃないし。…ただ簡単に読めちゃうと、すぐに次の読む本を探さなくちゃならないから、ワザと読みにくい本を選んでるんだ」


「んー。やっぱりよくわかんない」


「あははは。そうか。そうだよね」


その日、蒼は久しぶりに心から笑えた気がした。

それと同時に。自分は同年代の話し相手を欲していた事に気付いて切なくなった。

そんな感情がまだ自分に残っていた事に驚いた。


「じゃあ、シモクニは「先生」だね!」


「ん、何だい?それは」


エナは無邪気に命名する。


「私の知らない事をいっぱい知ってるから、シモクニの事は「先生」って呼ぶね」


「ええっ、ボクは先生と呼ばれるほど偉くないよ。それに…その、ボクよりキミの方が年上みたいだし」


「いーの。それで。だって名前難しいもん」


「だったら蒼でいいよ。友達は皆そう呼んでるよ」


するとエナは不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「やだ。皆と一緒なんて。私は私だけの呼び方でシモクニの事を呼びたい」


「……オーケー。わかったよ。いいよそれで。じゃあボクはキミを何て呼んだらいい?」


「エナはエナでいいよ」


「あははは…、そこは普通なんだね」



以来、エナは父親が退院してもずっと病院へ通うようになった。


身体が辛い日も、手術前日の心細い日も、先が見えなくて不安な日も、エナはずっと笑顔で蒼を支えてくれた。


 

        ☆☆☆



「ここが、ピアノの人の病室だよ。あ、ピアノ本当に聴こえる…」


「エナ、本当に大丈夫なんだろうね」


「ばっちぐーだよ」



「その……意味がわからないんだけど…」



特別病棟とは、一般的な病棟と違い少し特殊な事情で名前を表に出したくない患者が入る。

例えば芸能人や政治家、ちょっと怖い職業系の人物等が主で、以前エナの父親もそこに入院していた。


エナはこっそり蒼を連れて忍び込むと、ある扉の前で足を止めた。


「あ、ピアノの音だ。…これはノクターン?いやセレナーデかな」


ピアノの旋律はしっとりと甘く耳に絡みつく。

セレナーデとは、恋人が窓辺で唄う夜曲だ。

和名では小夜曲(さよきょく)という。


蒼は静かに耳を澄ませようとしたが、エナはノックもせずにいきなりドアを開けた。


「開いてたよ」


「エ…エナぁ。頼むからボクの心臓をもう少し労ってよ」


足元からズルズル崩れそうになる蒼を引っ張り上げ、エナは病室を覗き込んだ。



「あ、いたいた。シューカイドーさん。おっはー」



「おっはー。エナちゃん」



こんなまるで感情の起伏がない「おっはー」は初めて聞いた。


病室は特別病棟だけあって広く、調度はホテル並みの豪華さだ。

その中央にあるグランドピアノがやけに異彩を放っている。


そのピアノの前には、綺麗な顔立ちの男の人が立っていた。


彼こそが当時まだ二十歳の秋海棠一十だった。

喜多浦陽菜と一十が出会うのはこれより三年後の事になる。


彼は包帯に包まれた手首をヒラヒラ振って破顔する。


これが三人の出会いのお話。

後に「on time」となる輝きはこの瞬間、動き始めた。









































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