第58話「森さらさside*折り畳み傘の王子様*」

「はぁ…。この仕送りをしたら、また今月もカツカツね。困ったなぁ」



ここは都内にある芸能事務所「six moon」の2階。

トロピカルエースはこの事務所に所属している。

その2階は多目的ホールになっていて、様々な所属タレントたちがミーティングをしたり、談笑したりと自由に利用している。


その一角でコーヒーとケーキの乗ったテーブルの上に数冊の通帳を広げ、藤森更紗はため息を吐いた。


彼女はトロピカルエースのリーダーで、森さらさという名前で活動している現役のアイドルである。


その彼女が頭を悩ませているのは、借金取りのようにやってくる毎月の親への仕送りだった。


更紗はずっと母と祖母の三人で暮らしてきた。

現在、その祖母は三年前に体調を崩した事から地元大分の介護施設で生活している。


母子家庭で育った更紗は父親を知らない。

母は未婚の状態で更紗を産んだので、父親の存在すら知らずに育った。


母が更紗を産んだのは高校生の頃だった。


相手はその当時、母と複数交際していた男の内の一人だったらしいが、本人もよく覚えていないようで相手も多分、子供が出来た事すら知らないという。


我が親ながらとても情けないし、恥ずかしい。

思春期を迎えた中学生の頃にその話を偶然、祖母の口から聞いてしまった時は、自分がそんな経緯でこの世に誕生した事が恥ずかしくて仕方なかった。


更紗が地元、大分で子役の仕事を始めたのは小学3年生の秋頃だった。


金銭的に厳しい母と祖母との生活を支える為、更紗は小学生の時から働く道を選んだ。


しかし小さな子供が収入を得る手段はほとんど無いに等しい。

そこで当時の担任教師に相談し、地元の劇団を紹介してもらった。

そこから舞台やローカル局のミニドラマ等で経験を積み重ね、15歳で上京した。


それ以降、更紗は進学する事なく、ずっと母と祖母の為だけに働いてきた。


更紗を取り巻く状況が変わったのは上京後の事だ。


年齢と体調を考慮し、大分へ残る事になった祖母と別れ、更紗と共に東京へついて来た母が突然再婚し、派手な生活を送るようになったのだ。


その頃、更紗は単発で放映された学園ドラマが大当たりし、一躍名が売れた。

まだ十代だった更紗には信じられないくらいの大金が急に入ってきた。


そこに目を付けた義父は、何度も金の無心をするようになった。

金をやらないと母を追い出すと脅し、義父は更紗から強引なやり方で金を搾取していった。


義父となった男はろくでもない人間で、何度も詐欺恐喝の罪で刑務所に出入りを繰り返すような男だった。


何故そんな男に捕まったのだろう。

更紗は何度も義父と別れるよう説得を繰り返したが、母はそれを頑なに受け入れなかった。


義父は母を自分から離れられないよう、暴力で支配していた。


更に義父の連れ子の姉も同様に狡猾で、自分たちの夫をけしかけ、義父のように金の無心をしてくるようになった。


両方から稼いだ金をむしり取られるような生活はもう十年近く続いている。

その間、更紗はただ必死に働いた。

軽蔑していた母親を守る為に、嫌な仕事も進んでこなした。


年頃の女の子たちのように恋の一つもせずに、ひたすら仕事だけを頑張ってきた。



「私…、何のために生きてるんだろう」



フォークをチーズケーキにズブズブと刺して、更紗はまたため息を溢す。


ケーキは同じメンバーである陽菜からの差し入れだが、夢も希望もない通帳を見ているうちに気落ちして、すっかり食べる気をなくしてしまった。


そんな時、最近更紗はカバンの中にしまわれた折り畳み傘を見るようにしている。



傘を見ると思い出す。

あれは義姉の夫が金を返済しに来た日だった。

これまで彼ら、義姉夫婦に融資した金は五百万近くにのぼる。

金庫には返す気もない形だけの借用書が溜まる一方だった。


なので今年に入ってから、少しでも返済の意思を見せないと法的措置を取ると弁護士を通して脅しをかけてみた。


そこから義姉の夫が毎月微々たる額面を収めに更紗の元を訪ねるようになったのだが、ここ最近はそれが滞っていた。


あの日はその件で揉めて男が逆上し、札束を更紗の顔に叩きつけた。


そこに現れたのが、この折り畳み傘の持ち主だった。

優しげな風貌の若い男だった。

彼はお人好しなのか、わざわざあの男がばら撒いたお札を拾って持ってきた。


だが正直、今はそんな事はどうでも良かった。

心がズタズタで、とても他人の相手が出来るような状態ではない。


今すぐ一人にして欲しかったのに、彼は空気を読む事なく話しかけてくる。


しかも彼は自分がアイドルの森さらさだと言い当てた。

最近ではトロピカルエースもそれなりに知名度も高まっているので、例え雨で化粧が落ちてもわかる人にはわかるのだろう。


(参ったな。サインでも求められたら面倒だわ……)


一瞬そんな思いが過ったが、彼はサインをねだるような事はせず、傘を差し出してきた。


今更傘を使ったところで、もう既に全身ずぶ濡れで意味がない。

なのに彼は傘を差し出している。

その滑稽なシチュエーションが妙に可笑しくて、更紗はついその傘を受け取っていた。


その傘はそれ以来ずっと更紗のカバンの中にある。


「あの人、いくつくらいなんだろう。私と同じかちょっと下くらいね。…あの感じだと年上って事はなさそうだわ」


傘を取り出し、更紗は優しげな風貌の彼の事をぼんやり思い出す。


「もし私が普通の24歳の一般人だったら、ここから恋に発展したりするのかな〜」


傘をカバンにしまい、机に突っ伏す。

想像すると擽ったいような、どうにもならないムズムズした気持ちが湧き上がってきた。


「あ〜。バカだな…私。ホント、バカだ」


その時だった。

奥のエレベーターが開いて、ダンスレッスンを終えたばかりのエナとみなみが入ってきた。


「あ、森さん。お疲れ様でーす」


みなみが軽く頭を下げると、エナも同じ動作をする。


「でーす」


「ちゃんと言いなよ、エナ…」


「別にいいわよ。挨拶くらいでキレたりしないわ」


更紗はそう言って、机の上を片付ける。

どうもこの二人からは、自分は怖い先輩だと思われているようだ。


確かにこれまで、このプライベートな悩みのせいで新人である彼女たちを気遣う余裕がなかった。


そろそろ先輩として、彼女たちと真摯に向き合わなくてはならない。

更紗は心の中でそう思った。


すると突然みなみが何か思い出したような顔をして、背中のリュックから何かゴソゴソ探り始める。


「そうだ。森さん。これ…この間、「prom」に落ちていたお金です。森さんのお金なんですよね?これ、お返ししますね」


そう言って手渡された封筒の中身を見た更紗は困惑の表情を浮かべた。


「これ……どうしてあなたが?」


それはゴワゴワになったお札だった。

あの日、「prom」というコーヒーショップの裏手で義姉の夫にばら撒かれたものだろう。


しかし何故それをみなみが持っていたのだろう。

それはあの折り畳み傘の青年に押しつけたはずだ。


「あー、私もよく事情は知らないんですが、夕……いえ、あの…このお金拾った人が店のマスターに預けていて、それを私が更に預かった的な?」


すると、彼はあの金を受け取る事はなく、店のマスターに預けていたという事になる。


「ふふふっ。ふぅん…そうなんだ。結構まともな人なのね」


「森さん?」


急に妙な含み笑いをする更紗を見て、みなみはエナと顔を見合わせる。


「これ、わざわざありがとう。お礼にそこの箱のケーキ、全部あげるわ。陽菜からの差し入れよ」


そう言って更紗は笑顔で立ち上がる。


「わぁっ、いいんですか?」


「おおー、パイセン、あざーっす!」


みなみとエナが歓声をあげる。


「ええ。私は食べないから。じゃあ、今日は先に上がらせてもらうわね」


「はーい。森さん。お疲れ様でした〜」


「でしたー♡」


二人はすぐに箱の中のケーキに夢中になっている。

そんな子供のような二人を微笑ましく思いながら、更紗は事務所を後にした。



「林檎のシブーストうまーっ。森さんって、最初はヤな感じだったけど、結構いい人っぽいよね」


「そだね。ケーキくれた」


みなみは行儀悪く、手掴みでケーキに齧り付く。

陽菜の差し入れのケーキはどれも絶品だった。


「あの時、つい夕陽さんの事言いそうになっちゃって焦ったぁ」


「何で言わなかったの?カレシさんなのに」


モンブランを食べるエナは不思議そうに首を傾げる。


「だって、あそこで私の彼氏が拾いましたーって言ったら絶対何か厳しい事言われるよ。貴様、それでもアイドルかっ!…って」


「みーちゃん、それどこの教官?」


二人は揃って笑った。


「まぁ、まだ当分は先輩たちには内緒にするつもり」


「そっかぁ。頑張れー。みーちゃん」



        ☆☆☆



「はぁ…。今日は絶対タイムセールに行かなくちゃ。この前も逃しちゃって買えなかったのよね」


一方、早めに仕事を切り上げた更紗はもう一つの戦場に立っていた。


先程、駅のトイレで長い茶髪のウィッグを被り、マスクを装着した簡易変装でスーパーの中へ入る。


彼女のお目当てはタイムセールの味噌とサラダ油だ。

収入のほとんどを仕送りに取られてしまう更紗は日頃から倹約をして生活している。


芸能界での彼女のキャリアに見合わない、それは質素な生活をしていた。


思えば先日も小麦粉のタイムセールに間に合わなかった。

リハが長引き、どうしても買う事が出来なかったので、今回は是非ともリベンジしたい。


そんな気合いの入った顔で、更紗は他の客たちの列に並び、夕方のタイムセールの時間を待つ。


やがて時間ぴったりにスーパーの店長がメガホン片手にやって来て、セールは始まった。


どっと店内になだれ込む人々。

誰もこの中に芸能人がいる事なんてわからないだろう。

更紗は最初に味噌と特売の葉物野菜を確保すると、慣れた動作ですばやくサラダ油の棚へ向かう。


「まだあった〜!よっしゃ…」


サラダ油のコーナーはもう完売したのか、客の姿もなく、ただ空のダンボールが積んであるだけだった。

だが、更紗はすぐには諦めない。


未練がましくダンボールの中を一つ一つ確認していく。


すると一見空に見えたダンボールの中にまだ一本、サラダ油が残っていた。

思わず勝利の雄叫びが出そうになり、慌てて口を噤む。


すぐに手を伸ばしたが、その手は何故か空を掴んだ。


「?」


驚いた更紗は噛み付くような鋭さで顔を上げた。

そしてその顔は更に驚愕する。



「え…………折り畳み傘の王子?」



お目当てのサラダ油を掴んでいたのは、何と更紗に折り畳み傘を差し出した青年だった。



「おっ…。森…さん?」



彼は「さらさ」と言いかけて、場所を考慮したのかすぐに名字に言い直す。

まさかこんな変装をしていても見破られるとは思わなかった。



これは羞恥なのか動揺なのか、それとも別の種類のドキドキなのか…。


更紗の胸の鼓動が昂まった。




























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