第57話「喜多浦陽菜side*on time*」

「おはようございます。あ〜。一十さん、また床で寝てる」



朝、いつも通りの時間に彼を起こす為、隣室へ入る。

昨日は綺麗だったフローリングの床は、夥しい数の白い紙で埋め尽くされていた。

それらには全て五線譜が印刷されており、楽譜である事がわかる。


喜多浦陽菜は軽く息を吐くと、床に散らばる楽譜を一枚、一枚拾い上げていく。

すると、その中心にこんもりした山が現れた。



「おはようございま〜す。一十さん!朝ですよ」



陽菜はその山へ向けて声を張り上げた。

鍛え上げた腹式呼吸で発した声は伸びが良く、防音の部屋に響き渡る。


するとその山がモゾモゾと動きだし、ゆっくりと起き上がる。


「う…ん。もう朝か。いつも時間通りだね。おはよう。陽菜ちゃん」


子供のように純真な笑顔を向けた「山」の正体は、男性二人組ユニット「on time」のメンバーにして、アイドルグループ、トロピカルエースのプロデューサーを担当する秋海棠一十だ。


ヨレヨレのシャツから覗く白蠟のような肌は病的なまでに白く、まるで生気が感じられない。


「はい。おはようございます。向こうに朝食用意してますから、ちゃんと食べてください」



「いつもありがとうね。陽菜ちゃん」


一応笑ってはいるが、人形のような表情に乏しい整った顔立ちは、何を考えているのかわからない。


だがそんな彼が朝一番に、自分にだけ向けるこの笑顔が陽菜には何より愛おしかった。



「…で、昨日はどれくらい起きてたんですか?」



「さぁ。そこの窓が明るくなってきたのは覚えてるけど、何時かは見てない」


「……」


神経質な彼はこの部屋に時計を置かない。

作曲中は何の音も耳に入らないようにする為、奥にある一台のピアノ以外、音の出る物は置いていない。


当然秒針を刻む音のする時計も含まれるのだが、数年前に陽菜が音のしない時計を買って来た時、一時中央の壁にかけていた時期がある。


しかしそれもいつの間にか壁から消えていた。

やはり音がしなくても、気に入らなかったらしい。



「つまりはほとんど寝てないと?」


「んー。ちょっとは寝たよ。3本くらい短編の夢を見たし」


一十はヘラヘラと笑う。

いつもこんな調子だ。


「それって全然疲れ取れてないって事ですからね。夢を見るのは大抵浅い睡眠の時なんですよ」


床上に散らばる大量の楽譜を拾い上げながら、陽菜はまるで母親のように小言を言う。



「陽菜ちゃんは物知りだね。偉い。偉い」


そんな8つも年下の女の子の言う事に一十は異議を唱える事なく、嬉しそうに「うん、うん」と、頷いている。


こうして見ると、二人は一緒に暮らす仲の良い恋人同士に見えるが、実際はそうではない。



ただ陽菜だけが彼に想いを寄せているだけで、その思いは決して届かない。


ずっと陽菜の一方的な片想いのままだ。


いくら想っても叶う事のない絶望的な片想い。

一十は女性を異性として愛せない人間だった。



二人が出会ったのは6年前になる。

家庭環境に問題を抱えた陽菜は中学に上がると頻繁に家出を繰り返し、度々警察の世話になっていた。


その煩わしさから逃れる為に、陽菜はほとんど金も持たずに生まれ育った長崎を出て、数人いた知り合いを頼りに東京へ向かった。


そんな時、たまたま入った小さなライブハウスで見たのが当時まだインディーズバンドだった「on time」だった。


当時の「on time」は5人組のロックバンドで、5人が奏でる腹に響く重厚なサウンドに陽菜は圧倒された。

まるで自分の身体が一つの楽器になったかのような不思議な一体感を覚えた。


それから陽菜は夢中で彼らを追い続けた。

一十と知り合ったのは、それから半年後の事。


雨の日だった。

友達の家を転々とし、もう他に行くところもなくなった陽菜は、ライブハウスの裏で座り込んでいた。


そこに幽鬼のような雰囲気を纏った細身の男が前に立った。

それが秋海棠一十だった。


「…………」


陽菜は黙って彼を見上げる。

一十の瞳はガラス玉のように透明で、そこから何の感情も見出す事は出来なかった。

しばらく見つめ合った後、一十はボソリと呟く。



「ウチ来るかい?」



それが二人の始まりだった。

一十との暮らしは不思議なものだった。


まず今までどうやって日常生活を送ってい

たのか疑問に思うほど、彼の部屋には物がなかった。

それらを全て整え、人間らしい居住空間を作っていく事が陽菜の当面の仕事になった。


一十の実家は資産家で、かなり家柄が良いらしいのだが、彼はその実家から縁を切って生活している。


だから生活も切り詰めなくてはと思っていたが、一十は時々ふらりと外出する事があり、戻ってくると何故か剥き出しの大金を陽菜に渡してきた。


大丈夫。悪いお金じゃないからと一十は笑っていたが、内心はとても怖かった。


しかし当時はそれを聞く度胸もなかったので深く詮索はしなかったが、後に彼は外注で様々な楽曲提供をしていた事がわかった。


その後、ある程度生活が整い、時間的に余裕が出てくると、陽菜は「on time」の裏方も手伝うようになっていく。


ライブハウスの予約やチケット販売、ネットのサイト更新等の雑務を一手に引き受け、バンドを陰から支えた。


やがて「on time」がメジャーデビューする頃には5人いたメンバーは何回か入れ替えを繰り返し、最終的には2人になっていた。


2人組のユニットになった「on time」はキャッチーなメロディーに甘いルックスが若い女の子に受け、たちまちブレイクした。


生活は一変したが、一十はそれに流される事なく、変わらぬスタイルを通している。


あれから実家には一度も帰っていない。

今頃どこかでのたれ死んでいると思われてるのかもしれない。



「…あー、そうだ。陽菜ちゃん」



昔の事を思い出し、楽譜を拾う手が止まった陽菜に一十が声をかけてきた。


「はい?何ですか」



「久しぶりにセッションしようか?」



一十は柔らかな笑みを浮かべ、ピアノの前に立つ。


「え、いいんですか?」


「昨日で納品は終わったからね。今日はずっとこのまま家にいるつもりだよ」


その言葉と同時に嬉しさが全身に広がっていく。


「一十さんと歌うの久しぶりですね」


「そうだね〜。トロエーも忙しくなってきたし、もう陽菜ちゃんもボクの手を離れてもいい頃かもね」


「…やめてください」


「陽菜ちゃん?」


ピアノの前で陽菜は首を強く振った。


「私はずっと一十さんと一緒じゃなくちゃ嫌です。一緒にいられなくなるならトロエーなんか……」


すると一十が優しく陽菜を抱擁する。

そして背中をポンポンと軽く叩く。


「大丈夫だよ。陽菜ちゃん。ボクはキミが一人で立てるまでずっと側にいるから。トロエーはそんなキミの為に作った贈り物なんだよ」


「……一十さん」


この感情は一体何なのだろう。

これはきっと「依存」だ。

恋でも愛でもない感情で、彼は陽菜を守る。

それがどんなに辛い事か、きっと彼は知らない。









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