第56話

「はぁ…もぅ、クタクタだよ〜。癒して、夕陽さん」



深夜一時。一日の激務を終え、そろそろ寝ようと支度をしていたところに時間的な配慮もなく大きなチャイムが鳴り響く。


慌ててドアを開くと、ニット帽に大きなサングラス、白いパーカーに白いショートパンツ姿のみなみがなだれ込んできた。


どうやら相当疲れているようだ。

それ程、今日の仕事が忙しかったのだろうか。


「おー。ヨシヨシ」


「何で足でヨシヨシするのよ〜」


「ふぁ〜ぁ。俺は眠いんだよ…」


玄関で突っ伏すみなみの頭を片足で器用に撫で撫でしてやると、やはり吠え掛かってきた。

猛獣注意である。


「そんなに今日は忙しかったのか?」


仕方なく眠くて怠い身体に鞭打ち、カモミールとバニラフレーバーのお茶を用意する。


付き合う前はコーヒー一辺倒だったが、最近ではわりとお洒落なフレーバーティーもキッチンに置くようになった。

飲むのは主にみなみなのだが。


「違うよ。確かに今日はツアーの衣装合わせと通しでリハがあって疲れた事は疲れたけど、その後で早乙女さんの引っ越しのお手伝いさせられたの」


「引っ越し?そんなの業者に頼めばいいのに…」


引っ越しという事は、早乙女怜の俳優との破局絡みが原因だろうか。

頭の隅でそんな事を考える。


「急な引っ越しだったから、荷物の整理もしてなくて、取り敢えず前の部屋の物、そっくりそのまま運んだだけだったらしいの。で、その荷解きと不用品の片付けを、私とメイクさんと早乙女さんの三人でやったの。もう、本当にキッツかった!」


「それはご苦労様だったな。ほれ、お茶」


みなみにカップを渡すと、夕陽もその隣に座る。


「ありがと。ふぅ…。落ち着くな。そういえば処分した早乙女さんの荷物、ペアの物が多かったな。あの彼氏さんと結婚するつもりだったのかなぁ」


お茶を一口啜り、みなみはため息を吐いた。

彼女たちアイドルは夢を売る為に自身の様々な幸せを犠牲にしている。


そして売れなくなると、すぐにその価値は失われメディアから姿を消して行く。


彼女たちは苦労を知らない華やかなだけの偶像ではない。

日々、その価値を維持する為に相当な努力をしている。

そして金儲けの為に消費されていく存在だ。


みなみとの交際でその厳しい現実に触れ、夕陽も胸が痛かった。


「俺は待つよ。いつまでも」


「え?」


夕陽はみなみの頭に触れる。

柔らかな髪が指の間を滑って行く。


「明確な幸せが何かなんてどうでもいい。ただお前が選んだ道を進めばいい。俺はそれを近くで見守ってるから」


「うん。でもそれじゃあ、夕陽さんばかりに我慢を強いているよね?」


夕陽は笑った。


「我慢なんかじゃないさ」


みなみは首を振る。


「ううん。いいの。だからいつも全部受け止めてくれる夕陽さんに、私を全部あげます」


みなみの瞳が揺れている。

それは期待なのか、不安なのかわからない。

心臓の律動が煩いくらいに高まる。


「いいのか?」


「うん。もうきっと大丈夫だから」


二人が出会ってから一年が経った。

臆病で、人と触れる事を怖がった少女はあれから成長した。


夕陽は彼女を抱え、ゆっくりと寝室に移動する。


「そういえば夕陽さんの寝室に入るの初めてだね」


「ん…。そだな」



伸ばされる手は頼りなく宙を彷徨う。

その手を取ると直に彼女の震えが伝わる。


何とかその震えを止めようと繰り返される口付けは絶え間なく続き、知らず息が乱れる。


そしてベッドにみなみを横たえ、身を乗り出そうとした時、急に夕陽の顔が苦痛に歪んだ。



「あいたたたたたたたたたたたたっ!」



「なっ…どうしたの、夕陽さん。ついに最強の暗殺拳の使い手に目覚めたの?」



「違うっ!足が攣ったんだ」



「え〜、この場面で?」



「そう、この場面で!」


夕陽は足をおさえて悶えている。

良いムードも台無しである。


「あぁ、久しぶりだから、緊張で手も痺れてきた…」


「……ヘタれだね。夕陽さん」


「うるさい。何かもう色々ダメだ。このまま寝よう」


「え、何もしないの?ちょっ…せっかく攻めてる勝負下着装備してきたのに?」


「あ、それだけは見とこうかな」


夕陽がみなみの襟元を広げようとすると、その手がペチンと払われた。


「もう。何なの、この肩透かし感は…」


「まぁまぁ。今日はお互い疲れてるんだ。普通に寝ようぜ」


「痩せ我慢?」


「そうかもな〜。次はそんな今にも食われそな怯えた目で迫られない時に頼むわ」


「夕陽さん?」



夕陽はみなみを腕の中に抱え込むと、額に口づけを落とした。

みなみは一言呟く。



「ありがとう。夕陽さん」



「どいたまデス」



夕陽は気付いていた。

彼女のどうしようもない怯えを。

こんな不安定な時の彼女に今は触れるべきではないと。


しかし、こうして胸に抱き込んでも身を固くする事はなくなったので、後は彼女のタイミング次第。心の準備の問題だ。

それはきっと今夜ではない。



…「俺も大概バカだよなぁ。こんな最大のチャンスを逃すなんて」



ちょっと涙が滲む夜になった。

その後、二人が本当に結ばれたのは数週間後の事だった。

その記念すべき初めての朝。



「もう夕陽さん、最低」



「はぁ?いきなり何がだよ!」



ぼんやりリビングで仕事用の本を読んでいると、突然ブランケットに全身すっぽり包んだ妖怪が寝室から現れた。


ブランケットから覗く瞳は恨みがましくこちらを睨んでいる。


「だってよりにもよって上下バラバラな下着の時に盛ってくるし、ドチャクソ痛いし、腕枕しながら「昨夜は素敵だったよハニー♡」もなかった!」


「盛……お前、何て事言うんだよ。それにそのハニーって何だよ」


これまでの事を考え、夕陽なりに昨日は最低限気遣ったつもりだが、どうやら彼女には不満だらけの夜だったらしい。


「もう昨日エナから借りたBL漫画と全然違う」


「……何故BL漫画と比べる必要が?」



「はぁ。これが大人になるって事なの?お母さん」


夕陽はうんざりして顔を覆った。



「わかった。次は事前に万全な下着の時を確認して、もっとお前の身体を気遣う。それに……まぁ、腕枕もする」 



「うわぁ、それを真顔で言っちゃう夕陽さん、変態…最低」



「全部お前の希望だろうが!」


しかしみなみは嬉しそうに首を振る。


「ふふふっ。でもいいの。これは私が前に進む為に必要な事だったから」


「?」


「これで私はあの子の……詩織の呪縛から抜け出せる」


そう言ったみなみの顔は何だかスッキリしたように爽やかだった。


「そうか。良かったな。……って、その前に服着ろよな。さっきからブランケットの間からチラチラ中身見えてたぞ」


「えっ、うきゃあああっ!夕陽さんのバカっ、変態っ、親知らずっ!」


みなみはきつくブランケットを身体に巻き付け、バスルームへ逃げていった。


「親知らずは奥に後から生えてくる永久歯の事だろ……」


夕陽は笑いながらコーヒーを一口飲んだ。

こうしてこの日、二人は名実共に本物の恋人になった。









      



















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