第55話「乙女乃怜side*負け狗の挽歌*」

「なぁ、お前、普通この状況見て終わったってわからないの?」


うんざりするような相手のため息。

彼は羽多野竜生。


アニメやゲーム等の二次元の作品を三次元の俳優たちが舞台やミュージカルで忠実に再現する2.5次元俳優をしている。


怜とはバラエティ番組で知り合った。

竜生は最初から怜を気に入り、初日の収録後に開かれた打ち上げから強引なアプローチで迫り、すぐに同棲が始まった。


彼は家庭を持つ事に大きな夢を持っていた。

そこに怜は強く惹かれたのかもしれない。

それは今の自分には叶える事が出来ない夢だから。



「部屋から俺の荷物消えた時点でわかれよ」



そんな事はもうわかっている。

彼はもう別の一般女性と結婚した。

いつまでも結婚に同意しない怜を見限ったのだ。

悔しさが喉の奥から迫り上がる。

怜はそれでも食い下がる事を止めない。



「まだ……」



「え?まだ何だよ」



「まだ、別れようって言われてないもの。だからあたしの中では終わってなんかないっ!」


すると相手はバカにするように笑った。

こんな悪人のような笑い方をする人だったのだろうか。

舞台でゲームと同じ衣装とウィッグを纏い、キラキラ駆け抜けていた「彼」と同一人物なのだろうか。



「じゃあさぁ、今言うよ。俺と別れてくれ。莉奈」



「うっ……」



その言葉に涙が溢れる。

悲しいからではない。悔しいからだ。


自分がこれまで彼の為に費やしてきた時間やお金は全て無駄だった。

それがたまらなく悔しかった。


怜は彼に涙を見せたくなくて背を向ける。

その背に、彼はまた冷えた言葉を浴びせる。


「俺さぁ、秋には父親になるんだよ。俺だってもう34だし、そろそろ将来の事考えたかったんだ。わかってくれよな」


それは彼との将来を拒んだ自分への復讐のようなものだろうか。

ズキンと怜の心が傷んだ。


「悪かったわね、今まで。だけど例え今言われたとしても、あたしの答えは変わらない。あなたとは結婚出来ない」


「そうかよ…」


怜は涙を堪えるしかなかった。

今の怜にはそれしか言う事が出来ない。


自分だってそうしたかった。

彼の妻になり、そして彼の子供を産み、その成長を見守るような穏やかな生活に憧れていた。


しかし今更このトロピカルエースのプロジェクトから降りる事は出来ない。


もうこのプロジェクトは自分だけのものではない。

自分を高みへ押し上げる為に多くの人間が関わっている。


その自分が抜けるという事は、その人達を裏切り、路頭へ迷わせる事になるのだ。


そんな恐ろしい事をまだ22歳の怜に出来るはずはなかった。

自分の女性としての幸せは後回しにしなくてはならない。


彼は舌打ちすると、静かに去って行った。

彼の背後にはもう家族がいる。

怜が欲しくてたまらなかった家族が。


もう会う事のない彼の背中を怜はずっと見送った。

やがて彼の姿が完全に見えなくなった頃、ようやく落ち着きを取り戻し、スタジオに戻ろうとしたところで、怜は足を止めた。



「………お疲れ様です」



入り口に立っていたのは佐野隼汰だった。

彼はこのスタジオミュージシャンとして働いている。

以前は楽器メーカーに勤務していたが、次第に楽器を売り込む事よりも、演奏する事の楽しさに目覚め、二年前からこのスタジオで様々なアーティストのアルバムにも参加している。


得意な楽器は機械いじりが好きなので、シンセサイザーがメインだが、他にもギターやベース、ドラム等もそこそこ出来るので若手ながら、様々な場面で重宝されているらしい。


彼はトロピカルエースのアルバムにもサポートメンバーとして参加していたので、その辺りの経緯は最初の挨拶で聞いていた。


だからここで彼と会う可能性はないわけではない。


怜は素っ気ない挨拶を返して、彼の横を通り過ぎようとした。


すると目の前にハンカチが差し出される。


「……?」


怜は無言で隼汰を見上げる。

いつも笑顔の絶えない陽に焼けた隼汰の精悍な顔は、やや沈鬱に見えた。


「涙、まだ頬に残ってますよ」


「くっ……!」


一瞬で顔から火が出そうなくらいの羞恥心が全身を駆け巡り、怜は引ったくるように彼からハンカチを奪うと乱暴に頬を拭った。


「…さっきの見てたの?」


「はい?いえ……その…はい」


「どっちよ!」


煮え切らない隼汰に思わず怒鳴ってしまった。


「いや…全部は聞いてないです。ちょっとここ通りかかったら、乙女乃さんが泣いているようだったから気になって……その、元気出してください」


「……何よそれ、全部聞いてんじゃないのよ」


「……ホント、スミマセン。あ、でも聞くつもりは全然なくて」



本当に申し訳なさそうに隼汰は頭を掻いている。

その様子が滑稽で、少しだけ怜の溜飲も下がった。


「別にいいわ。フラれるのなんてこれが初めてじゃないんだし」


「え、そうなんですか?こんなに綺麗なのに」


隼汰は目を丸くして心底驚いたような顔をしている。

彼は学生時代、自分を振っている。

だけど、まさかその時の身の程知らずな女が目の前のアイドルだとは思っていないのだろう。


「綺麗ねぇ…」


「あ、その…今のは失礼ですね。申し訳ないです」


彼とは本当は関わり合いたくなかった。

関わればきっとあの頃の自分と向き合わなくてはならなくなる。


どうして彼はまた自分の前に現れたのだろう。


「あのぅ…」


絶望感に身を震わせ、怜はスタジオへ入ろうと踵を返す。

すると再び隼汰が呼び止める。


「まだ何か?ハンカチは後で洗って返しますから」


「いえ、そうじゃなくて…」


「?」


隼汰は思い切って口を開く。



「怜さん、俺と付き合ってくれませんか?」



「はぁっ?」



思いがけないセリフに怜の顔が大きく歪む。

一体何を考えているのだろう。この男は。

たった今、恋人に振られたばかりの自分に何を言い出すのだろうか。


過去の事を抜きにして、実際自分と彼が言葉を交わしたのはせいぜい二、三回だ。


それだけで自分の何がわかったというのだろう。

もうこういう強引な展開は竜生で懲りている。

だから次にいつか恋をするならもっとゆっくり相手の事を知りたい。


第一、自分は以前彼に振られているのだ。

怜は冷笑する。



「ごめんなさい。止めておくわ」



そう言って、怜は今度こそスタジオへ入った。


「本当にバカにしてる……」



負け犬にもプライドがあるのだ。



 











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