第54話

東京都が例年よりも遅い梅雨入り宣言をしたその日、雨は一日中降り注いだ。


夕陽は足早にオフィスを出て恋人、永瀬みなみが待つ音楽スタジオ付近にあるコーヒー店へと急いでいた。


後少しで店に着くというところで、突然視界の端に何か白い紙切れが入り、夕陽は傘を持つ手とは反対の手で思わずそれを手にしていた。


「え?………金?何で…」


それは雨に濡れてゴワゴワの一万円札だった。

よく見ると、それはたった今ばら撒かれたように辺りに散らばっている。

夕陽はその札を拾いながら、店の裏手に回ってみた。

お札はずっとその裏手にまで続いていた。


「おっ……っと」


店の裏手へと続く塀は狭く、先を覗き込もうとしたところで、黒いジャケットを着た男が猪のような勢いで出てきた。


夕陽はすぐに身を翻し、それを交わした。

男はそんな夕陽に一瞥すらせず、そのまま傘も差さずに走り去っていった。


年齢は30代半ばくらいだろうか。

ジャケットの下に着ているパーカーのフードで顔半分はわからなかったが、がっしりした顎には疎らな無精髭が生えていた。


すれ違った瞬間、何かあの男からは関わってはいけないような殺伐とした雰囲気を感じた。


「何だったんだ?一体」


気になった夕陽は、傘をたたみ、男が去った塀の向こうへ歩を進めた。


狭い塀に囲まれた店の裏手を進むと、そこは雑草が生い茂る開けた庭に出た。

雨はまだ勢いを失う事はなかったので、再び傘を広げる。


「………………」


夕陽は目を見張った。

そこには一人の女性が傘も差さずに立ち尽くしていた。

俯いていて顔はわからないが、スラリとした細身の若い女性だ。

雨で彼女の黒髪は白い頬に張り付き、その滑らかなラインを滝のような雨が伝っている。


身に纏うミントグリーンのワンピースも雨でぐっしょり濡れて、下着のラインをくっきり際立たせている。


思わず駆け寄って、上着をかけてやりたくなったが、それよりも夕陽は彼女の手元に釘付けになった。


その手元には一万円札が数枚握られていた。

多分そこでばら撒かれたものだろう。

するとこのお札は彼女のものかもしれない。


「…あの、これ落ちてたんで」


夕陽は拾った紙幣を彼女に渡そうとした。


「………いりません」


「え?」


か細い声が返ってきて夕陽は動きを止めた。

すると彼女がゆらりと顔を上げた。


「……森…さらさ?」


「…そんな女、どこにもいないわ」


雨に濡れた彼女の顔は驚く程整っていた。

濡れたように輝く瞳、通った鼻筋に続く唇はやや色を失っていたが、雨の雫を受けて瑞々しい桃色をしている。


それはトロピカルエースのリーダーでモデルの森さらさだった。


さらさは手にしていた残りの札を夕陽の胸に押しつけると、薄く笑った。


「あなたにあげるわ。こんなもの」


「いや、何で…いきなりやると言われても困りますって。俺はただ拾っただけなんで、…というか森さらささん…ですよね?」


さらさは一瞬肩を震わせた。

寒さからなのかはわからないが、ここで名前を出すのはいけなかったのだろうか。


「ここに森さらさなんていないわ。だって本物の森さらさはこんな風に家族やその他大勢の顔も知らない親戚から集られて金をむしり取られ飼い殺されるようなクズじゃないでしょう?」


「…さっきの男、家族か親戚だったんですか?」


「さっきの男?あぁ…顔も知らない姉か妹の自称夫とかいう寄生虫の事?」


「寄生虫……。まぁ、とにかくこの金は返します」


「いらないわ。あげるって言ったでしょ。そんな、汚いお金。持っているだけで手が汚れるから」


そう言ってさらさは夕陽の手に濡れた札束を押し付ける。


「俺の手は汚れてもいいって事かよ」


「ふふふ。あなたが使う事で清めてちょうだい」


そう言ってさらさは踵を返した。


「あ。せめて傘を…」


すると白い手が伸びてそれを受け取った。


「ありがとう。それはいただいておく」


さらさは傘を手に、細い路地の向こうに消えて行った。


「あれが森さらさ…なのか」



        ☆☆☆




それからしばらくしてみなみがやってきた。

トロピカルエースは8月からデビュー1周年記念ツアーの後期が始まる為、レッスンやプロモーション等の活動で忙しい時期だ。


「夕陽さん、どうかしたの?ずぶ濡れじゃん。傘持ってなかったの?」


待ち合わせ場所で全身から水滴を滴らせて待っていた夕陽を見て、みなみはびっくりした顔で、すぐに店の者にコーラをオーダーするついでにタオルをお願いした。


「いや、すぐそこで森さらさを見たんだ」


「え、森さんが?そっかー。森さんも来てたんだね」


店員がコーラとタオルを持ってくると、みなみは夕陽の頭を乱暴に擦る。


「コラコラ、力が強すぎるんだよ。ゴリラかお前は。禿げるだろうが」


「いっそ禿げちゃって、これ以上モテなくなっちゃえー!」


「バカかお前は!」


どうやら何か嫉妬しているらしい。

完全な濡れ衣である。


「何か、彼女色々あるみたいだぜ。それからこの金、彼女に返しておいてくれよな」


「何、びしょびしょのお金…もしかして援交…」


「じゃねーから。とにかく俺も詳しい事情は知らない。だけど返しといて欲しいんだ」


「ふーん。ふぅ。色々腑に落ちないけど、一応わかった。預かっておくね」


みなみはそれをハンカチに包んでカバンにしまった。


「森さん、借金でもあるのかなぁ」


「借金?」


コーラを一口飲むと、みなみは何か思い出すように視線を上方へ向ける。


「うん…。時々ね、事務所やスタジオに森さんを訪ねて怖い顔の男の人が来るんだ。森さんはいつも、ちょっと待っててって、その男の人と一緒に出て行くんだけど、戻ってきたらいつも辛そうな顔してたな」


「……そうなのか。でもその男が本当に借金取りかはわからないだろ?」


それは飽くまでみなみの初見のイメージだ。

しかしみなみは首を傾げる。


「うーん。それがそうでもないんだな。エナが前に森さんがその男の人にお金の入った封筒を渡してるトコ見たって言ってた。その人、その場でお金を数えて、足りねーって怒鳴ってたって」


「マジか…」


あのばら撒かれたお金は一体何だったのだろうか。


「とにかくこれは森さんに渡しておくね。それから、私の傘使って。私はセカンドマネージャーの車使って戻るから」


そう言って、みなみはウサギとネコのファンシーな傘を手渡す。

それを見た夕陽の顔が歪む。


「いや、いいって。大丈夫だよ」


「だーめ!ただでさえ濡れてるんだから、風邪ひいちゃうじゃん。これを差して帰る事!」


「うーーわーー。マジかーー」


「うん。命令だよ。じゃあね。夕陽さん。今日も会えて嬉しかった」


「あぁ。またな」


去り際軽く手を握られ、幸せな気持ちでみなみは店を出て行った。


「さて…。これ、マジで差さないとならないのか」


会計を済ませ、夕陽は店の出口でゆっくりとファンシーな傘を差す。


「小学生の傘みてぇ……」


額に下りた前髪を掻きあげ、夕陽は覚悟を決めて雑踏へ踏み出した。


雨はその後、止む事もなく明け方まで降り注いだ。



















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