第25話
「それじゃ気を付けて行くんだぞー。生水飲むなよー。知らない人についてくなよー」
そしていよいよ旅行当日がやって来た。
早朝、笹島が何故かマンションまで見送りに来ている。
「笹島さん、ウザ……」
エントランスから出てきたみなみはげんなりした顔をしている。
しかし朝から見るにはキツい顔ランキング殿堂入りを誇る強者はそんなあからさまな、みなみの態度には動じない。
「ふふふ。みなみん、君はきっと後で俺に泣いて感謝する事になるね」
「はぁ?笹島さん、もう帰ってもらっていいですか」
「あぅぅん、みなみんもっと言って」
「………」
そんな二人のやり取りを夕陽は眩しそうに眺めていた。
みなみの笹島とはしゃぐその表情には何の曇りもない。
いつもと同じ笑顔に見える。
だけど彼女は決して誰にも本当の自分を話さない。
恋人になった今でも絶対に彼女は一度もその心に抱える闇を見せる事はなかった。
本当はもう彼女の心は限界を迎えているというのに。
「…………」
そして夕陽の中にはある予感めいた確信があった。
みなみはこの旅で別れ話をしようと思っている。
夕陽は数日前の事を思い出していた。
それは早朝の事だった。
元々眠りの浅い夕陽は少しの物音でも目を覚ましてしまう事が多い。
その日も隣の部屋からドアを開閉する音を感じ目が覚めた。
サイドボードの時計を確認すると朝の4時。
こんな早い時間にみなみはどこへ出かけるというのだろう。
現在みなみは芸能活動を休止している。
レッスンと復帰に向けてのミーティングはやっているものの、こんな早い時間になんて行かないだろう。
そう思うとどうしても気になって、夕陽は彼女に悪いと思いつつ、ベッドを抜け出し、着替えてその後をついていった。
☆☆☆
「わかった。夕……真鍋さんとは別れるよ。別れるからお願い……」
エントランスに降りると、ちょうどそんな言葉が耳に入ってきた。
「みなみ……」
マンションの前にはロンTにブラックのスキニー姿のみなみが立っている。
その向かいには白いレース地のロングワンピース姿の女性がいた。
「あれは…」
よく見るとショートボブの髪のサイドに一筋、赤いメッシュが入っている。
それはここ最近、このマンションで度々見かけるようになった女性だ。
やはりみなみとあの女性は知り合いだったのだ。
夕陽の中で少しずつパズルのピースが組みあがっていく。
彼女こそが笹島の言っていたネットストーカーなのではないかと。
9月に渋谷で起こったみなみがファンを名乗る男に襲われたあの事件から、そのネットストーカーも男だと勝手に思っていたが、そうではない。
夕陽は初めて彼女を見かけた時の彼女の異常な笑顔を思い出し、そう確信した。
その彼女にみなみは自分と別れると言っている。
あの自分の前では涙を流さなかったみなみが今は彼女の前で、小さな少女のように肩を震わせ泣いていた。
思わず駆け寄って抱き締めたい衝動に駆られるが、ここで出て行くわけにはいかない。
夕陽はその衝動を拳を握りしめる事で押さえつける。
すると赤いメッシュの女性がみなみを抱きしめてきた。
「嬉しい。やっぱり巳波は今でもあたしの一番だよ。巳波もそうだよね?」
「うん……と…当然でしょ」
何となく吐き気を覚える会話だと思った。
事情は何一つ知らないが、あの女はああやってみなみを言葉の鎖で縛り付け、支配しようとしている。
何故みなみはそれに従おうとしているのだろう。
あの表情から、彼女が間違っているという事に気付いているはずだ。
そう思い、悔しさに唇を噛み締めていると、メッシュの女性は長袖の腕を捲り出すのが見えた。
「何をするんだ?………包帯?」
袖を捲った腕は棒切れのように細い。
そしてその腕には包帯が巻かれていた。
白の色彩の中に鮮やかな紅。
「何だあいつ…リスカ……か」
包帯には生々しい鮮血が滲んでいた。
それを彼女に見せ付け、笑っている。
全身が勝手に震え出す。
こんな狂った、歪んだ狂気と悪意、夕陽には見た事がなかった。
いかに自分が表面上は平和な世界に立っていた事がわかる。
「助けてやらないと…。早くあの狂気からあいつを救い出さないとあいつは壊れる」
夕陽はそっと彼女たちから離れ、ゆっくりとした足取りで自分の部屋へ戻った。
☆☆☆
「あれあれ?どしたの、夕陽さん。怖い顔して」
気付くとみなみが戻って来てこちらを不思議そうに見上げている。
「え?俺そんなに怖い顔してたか?」
すぐに夕陽は笑顔を見せた。
彼女に余計な心配はさせられない。
「うん。どこかをじっと睨みつけてたよ。苦味走った大人の男っすか?」
「何だよそれは」
目の前で変顔をするアイドルを見て、夕陽は密かに決意する。
絶対に彼女を守ると。
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