第16話

「な……何で、どうして…身体は……」


「はいはい。落ち着いて〜。深呼吸」


あまりの衝撃にまた呼吸の仕方を見失い、顔を青くする夕陽の背中を少女が優しく摩る。


何だか子供に戻ってしまったようで、どことなく照れ臭い。


やがて落ち着いてくると、ようやく目の前の少女のが現実のものだと認識出来る様になった。

おずおずと手を伸ばす。


「ふにゃ?」



弾力のあるすべすべした頬を摘む。

ずっと会いたかった少女は妙な声を出して首を傾げる。

それを見た途端に夕陽の目から涙が溢れた。



「お帰り。みなみ。それから19歳、おめでとう」



「うん。ただいま。夕陽さんは泣き虫だね」


繊細な指先が夕陽の赤く染まった目元を拭う。

年下の女の子に涙を見せてしまった羞恥心と更にそれを拭われたバツの悪さに今にも全て放り出して逃げ出したい衝突に駆られる。


「……お前は泣かなかったのかよ」


「私?さぁ、どうだったかなぁ。あ、涙引っ込んだね」


「…………」


「もう、可愛いなぁ。夕陽さんは。しばらく会わないうちにヒロイン属性開拓しちゃった?」


「うるさい。大人を揶揄うな。それより身体は大丈夫なのか?」


涙は引っ込んだが、顔の赤さはなかなか引かない。

それを誤魔化すように、ずっと気になっていた事を聞く。


みなみはピースサインで応えた。


「まだ縫ったとこは痛いけど、もう大丈V!」


「前から思ってたが、お前の言語センス微妙に古いのな。一体誰の影響なんだか……」


しかし目の前で元気そうに振る舞う姿を見ると安心出来た。


「でも、もうグラビアのお仕事はムリかなぁ……」


みなみは残念そうに腹部を摩る。

その下にどんな傷が残ったのだろう。

それを考えると辛い。


「痛かったか?」


「うん。…でもあまり当時の事は覚えてないんだ。気がついたら病院だったみたいな」


「……ごめんな。俺のせいだ」


するとみなみは怖い顔で睨んできた。


「そういうのやめよう?誰が悪いとか、誰のせいだって責めるのは時間の無駄デス」


「みなみ……」


何だか目の前の少女の方がずっと大人に見えて恥ずかしくなる。

みなみと再会してからずっとこんな感じでこれではどちらが大人かわからない。


みなみは力強く微笑む。


「私は大丈夫!逞しいアイドルなんだから。あ、そうだ傷口見る?」


急に思い出したようにみなみはジャージの裾を上げようとする。

何故かジャージの下は何も着ていないようで、チラリと白い肌が一瞬見えた。

夕陽は慌てて瞬時にその手を下げさせる。


「わかった!もう言わない」


「うん?夕陽さん、見たくないの?アイドルの生着替え」


「そこで見たいと言って欲しいのか?」


するとどちらからともなく笑い声が漏れ出した。

こんなに笑ったのは、あの事件以来だった。


        ☆☆☆


それから落ち着いた夕陽は、みなみを改めて部屋へ通した。


「へぇ〜、ここが夕陽さんのお部屋かぁ」


元々掃除はマメな方で、大して汚れてはいないが、それでも本気で掃除したあの日に比べると片付いてはいない。


「あ、ここのデリバリー、私もよく使うよ」


「あんまり見んなって」


ドアの横に溜めていた通販やデリバリーの空箱を観察されて、夕陽はそれをキッチンへ仕舞い込む。


「ふっふっふ。ヲタク訪問じゃ」


「……何か変換、おかしくなかったか?」


やがてコーヒーが出来上がり、二人はソファに並んで座った。


「…で、さっきはどさくさでスルーしちまったが、引っ越してきたって言ったよな?」


夕陽の視線はまだ玄関に放り出されたままの蕎麦の箱に注がれている。


「うん。そだよ」


そう言ってみなみは眼鏡を曇らせながら両手で持ったマグカップのコーヒーを啜る。

その横にはニット帽とメガネ、マスクが置かれている。

素のみなみを前にすると、何だか心拍数が上がるのはどうしてだろう。


「そだよ、じゃねーよ。何だって隣に…」


するとみなみはニッコリ笑った。


「私、3か月無職なんだよね〜。だから夕陽さん、私を養ってよ!」


「はぁぁ?どういう事だそれ」


「言葉のままだよ」


「いやいや、それは不味いだろう。ヤバいだろう。アウトだろう。レッドカードだろう」


「…夕陽さん怖いよ」


つい、4ダロウを発動してしまった。

夕陽は軽く咳払いをする。


「とにかく、俺たちは恋人でもなんでもないんだ。だから……むぐぐぐ?」


そこまで言った唇が突然もの凄い質量を伴って塞がる。

全ての思考が持って行かれるような、獣のような口接だった。


「わかった。夕陽さん、じゃあ恋人になって。私とお付き合いしてください」


「は?」


……何か違う。

昔、ドラマや映画で様々なアイドルや女優たちの甘くロマンティックなキスシーンを見てきた。


きっと、彼女たちの唇は柔らかくマシュマロのようで、いい匂いがするんだろうと。


そんな俳優でもない一般男性の自分が人気絶頂アイドルとキスをしたのだ。

なのに何か違う。


人気絶頂アイドルとのキスは野生の獣のように荒々しく、コーヒーと蕎麦の出汁の匂いがした。










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