第15話 答え

 脳髄を麻痺させる、火照りにも似た花香が全身を侵していた。

 鎖された八畳二間には間接照明があるのみで、ぼやけた影とともに浮かびあがる百花が、宵闇にふちどられた夜桜のごとく妖しく色めく。

 静まり返った室内で、しかし百々は雨音を聴いていた。

 いつもは心をみだすその音が、百々の中心をつめたく冷やして思考をクリアに尖らせていく。


「あなたが、モリミヤジン」


 低くその名を吐き出せば、遼は眼鏡の蔓を煩わしげにつまんでそれを取り去り、口元に愉悦をたたえた。


「ようやく逢えたね、鳥居百々」


 遼の顔をして、遼よりもさらに深くいとおしむように百々の名を呼ばうその男を、一体なんと呼べばいいのだろう。

 もはや南字遼は、いやはじめからそんな名前の人間は存在しなかった。この期に及んで、そのことに泣きたいような心地になる。気を抜けば、なんでどうしてとこの世で一番憎いはずの男に縋ってしまいそうだった。

 そんな自分が赦せなくて無理やり怒りを呼び起こせば、余計に視界がぼやけて、ますますわけの分からないことになった。


「モリミヤジン? それとも椛谷倫と呼ぶべきですか。いくらでも無関係な名前を使うことはできたはずなのに、わざわざ名前に拘ったのは自己顕示欲の顕れですか」

「さあ、どうかな。好きに想像して?」


 モリミヤは、彼が椛谷倫である可能性を肯定も否定もしなかった。乞うように、それでいて強いるように甘く、百々の思考を底なしの淵にいざなう。


 モリミヤは先ほど、僕の夢は叶わなかったと言った。

 もしモリミヤが椛谷倫なのだとすれば、彼の夢とは仇であった阿久津を殺すことだったのだろうか。だから果たせなかったその願いの代わりに、他の者たちの復讐を手伝っていたのだろうか。


 ――世界を正したがりのやさしいひと。

 ――モリミヤさんだけが、一緒に世界を正そうと言ってくれた。


 明星と上遠野の言葉がリフレインする。

 では、百々にかなえてほしいモリミヤの夢とは、阿久津殺しにしくじった百合子の娘の死だろうか。


 目まぐるしく流れていく百々の思考を押しとどめるように、モリミヤはでも、と囁く。


「君にとっての唯一は、僕がモリミヤジンであること。それだけだよね?」


 モリミヤは、ぐちゃぐちゃなった百々の胸のうちをほぐしてやさしく掻き混ぜ、ととのえるように、小首を傾げた。

 モリミヤの思いどおりに揺れ動く自分の心が不愉快で、百々はきつく彼を睨み上げる。


「……自分が情けなくて仕方ありません。あなたを恩人だと信じて、十年以上の時を無駄にした!」


 八畳二間に、罅割れた声がわんわんと響きわたる。


「無駄にはしてないよ」


 いたわるように言って、モリミヤは百々に歩み寄った。

 声にならない悲鳴が漏れ出る。けれども、モリミヤは百々を縊り殺すことも臓腑に刃を突き立てることもしなかった。百々の手を硝子細工でも扱うみたいに恭しく持ち上げると、なにか硬くてつめたいものを握らせる。おそるおそる目線を落として、百々はひゅっと息を飲み込んだ。


 鈍く薄闇にかがやく、ガンブルー。大きさに反して、ずっしりとした重みが手首にかかる。

 百々にその種類までは分からなかったが、それはまさしく拳銃だった。


「――意味が、分かりません」


 怯えた、擦れた声がかろうじてモリミヤへと向かう。

 モリミヤは少しかがんで、百々の耳元に唇を寄せた。


「分かるはずだよ。ずっと望んできたはずだ。僕は知ってる」


 ほとんど口づけるように、声が耳朶に触れる。そこから、甘やかな毒がたっぷりとそそぎこまれるような心地がした。


「君のおかあさんは、やさしくて虫も殺せないようなひとだった」


 モリミヤの声は歌うように軽やかだった。

 その声に呼応するように、体内からひとつ、波音が聴こえた。


「――やめて」


 百々は後退りしかける。逃げようとする腰を引き寄せられ、鼻先がモリミヤの肩口に埋まった。

 後頭部から首筋を、なだめるようにモリミヤの掌が行き来する。

 なにか縋るものを探して目を見開いて手を伸ばしても、なにも見えない。なにも掴めない。そこにあるのはただ薄闇と、子守唄のようなモリミヤの声だけだった。


「でもそれでは困るから、僕が色々……話をした」

「やだ」


 寄せては返すその音が、大きくなる。

 百々はモリミヤの胸を衝き飛ばすと、力任せにしゃがみ込んで、両耳を塞ぐ。


「――百々ちゃん」


 懐かしい、もう居なくなってしまったはずの男が在りし日のように名を呼んだ。百々はたまらず顔を上げてしまう。

 遼の顔をしたなにかは、百々を憐れむように眦を下げた。


「僕が鳥居百合子を、大量殺人を陽動する、みんなの神様に導いた」


 呼吸が引き攣れる。

 今ひとたび、潮が満ちた。

 握りしめた拳銃の重さを、はっきりと認識する。


「君ならいいよ、正当性がある」


 モリミヤはまるで、赦しを与えるように言った。

 まるで世界の真理を告げるように、或いはねだるように声が落ちる。


「僕はちいさな君から、おかあさんを奪った。それは正されなきゃいけない。そうじゃなきゃ、おかしい」


 百々の手首を捧げもって、モリミヤはみずからの額にその銃口を押し当てる。

 撃鉄を起こし、百々は細く息を吐き出す。ひと筋の滴が頬を流れ落ちて、きつく目を瞑った。


 一拍、二拍。そうして答えを手に、百々は目を見開く。


 それから――障子戸が窓硝子ごと蹴破られる、破壊的な音がした。


「鳥居!!!!」


 八畳二間に、眩い光が射す。

 激情が濁流となって押し寄せる。暴力的ですらあるのに、今にも泣き出してしまいそうな、縋るような不安を秘めた声。このような声をした男を百々はひとりしか知らない。


 境木さん、とそのひとを乞う声がまろび出た。


「触んな」


 累は低く、獣のように唸る。百々の手首を掴んでいたモリミヤの腕を捻り上げると、拳銃を誰の手にも届かない向こうへと滑らせる。それから累は百々の上体を強い力で引き寄せた。

 息も触れ合いそうなほど近くで、視線がぶつかる。磨きあげられた刃のような眸の揺らぎがひと際大きくなる。

 だから百々は、彼の誰よりも傷つきやすくてやさしい、そのうつくしい双眸をまっすぐに見つめて、はっきりと言葉を形づくる。


「大丈夫です、殺しません」


 累の眸が見ひらかれる。

 そのひとの切れ長の融けかけた目尻にそっと指の腹で触れて、百々は微かに口の端を上げる。


 ぎりぎりまでその衝動に衝き動かされそうになったのは事実だった。

 百々の上に一年中降り続ける雨音を掻き消す、唯一の手段。寄せては返し、やがて満ちゆく欲望。人を越境させる、殺意という名の怪物。


 モリミヤの言うように、何度も何度もこの手でモリミヤジンを手にかける日を夢想した。そうすれば、母が死んだのは、母が怪物になったのは自分のせいかもしれないなんて、思わずに済むようになる。そんな都合のいい夢に溺れた。


 でも、百々は決めた。嘘偽りなく、そう決めた。


 累の胸を押して、みずからの足ですっくと立つ。

 それから百々は畳にへたり込んでいるモリミヤを見下ろした。いつの間にか入ってきていたらしい八森に、両の腕を手錠で戒められている。


「モリミヤジン」


 百々の呼びかけに、彼はほとんど反応しなかった。

 かろうじて首が廻り、そのがらんどうの眸に百々が映し出される。

 百々は短く息を吸った。


「あなたの言うとおり、この世界に正されるべきものはいくつもある。だけど私は、そのために正しさを手放そうとは思わない。私自身を、手放したくはない」


 一切の興味をなくしたように、モリミヤは中空を見つめる。

 先ほどまで百々に毒をそそぎこんでいた人物とは別人のように、その眸は無垢な少年のようにすら見えた。


「それに私の相棒が、今度こそ立ち直れなくなるかもしれない。それだけは、嫌でしたから」


 百々の声が届いているのかは分からない。

 だから百々は、累と自分のために訣別を告げる。


「あなたの望むものは、なにひとつあげない」


 破れた窓から、湿気を孕んだ風が吹き寄せる。

 八森がモリミヤの手に申し訳程度に上着を引っ掛け、外に停めてあった車に連行していった。


 その影が完全に消えてから、百々はずっと前に取り落とした青いばらに手を伸ばした。

 誰かに踏まれたのか、その花びらはいくつか欠けている。その散りゆくなにかの残滓を、百々はそっと拾い上げた。

 累は舌打ちをしたが、百々の行動を非難はしない。ただ黙って、隣に並んだ。

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