第14話 正体

 ばん、という静けさを破る音がした。

 累は蹴破る勢いで開けたパラ対のオフィスのドアが間延びした音を立てて閉まるのを聞きながら、部屋の隅から隅まで視線を走らせる。

 それからようやく、デスクでびくっと肩を跳ね上げている八森を睥睨した。


「――鳥居は」


 粘ついた地の底を這うような声にも、八森は怪訝そうな顔を崩さない。


「は? 来てないっての。てか、お前ら今日非番じゃなかったの?」

「さっき鳥居から着信があった。ワン切りだ。でもそのあとは電話がつながらない! あんたがなにかしたんじゃないのか!」


 八森の胸倉を掴んで、累が吼える。

 八森のくたびれた、皺の目立ち始めた手からスプーンが落ちて、床にプリン・ア・ラ・モードの一部が散乱した。


「落ちつけ、境木。なにかってなんだ。お前、まさか俺のことモリミヤジンだって疑ってる?」


 白々しい問いに、凶暴な嗤いが漏れ出る。

 その勢いのまま、八森を壁に押しつけようとしたところで、扉が開いた。


「なにやってる!」


 険しい声を上げて、第三係の紅一点の係長が間に割って入る。タイミングの悪いことに、なにか資料を届けにきたらしい。


「一回落ちつきな。境木、なんでこんなことになってるのか説明して。今すぐ」


 部外者の乱入に腸が煮えくり返る。けれども日頃の習慣というものは馬鹿にできないものだ。累は肩で荒く息を繰り返し八森からは一瞬も目を逸らさずにいながらも、淡々と口を開いた。


「鳥居から三十分ほど前に着信がありましたが、その後連絡が途絶えました。俺はこの人が鳥居に危害を加えたのではないかと疑っています。鳥居を見ていませんか」

「鳥居のことは知らないけど、錠ちゃんは一時間前からつい五分前まで課の会議に出席していた。こってり絞られていて、怪しい素振りも一切なし。私も同席していたから間違いない」


 第三係係長がスケジュール帳の会議という文字を指で叩いて示しながら冷静な声で言う。

 累は信じられない思いで八森を見た。苦虫を噛み潰したような顔をして、八森は累の視線を受け止める。


「俺があの子を苦しめるような真似するかよ。お前の疑問、全部答えてやる。なんで俺がモリミヤジンなんだ。根拠は」

「爆弾テロを起こせて、警察の内部事情にも詳しく、百合子と深い関係があり、鳥居に執着しうる人物」


 累は親指から順繰りに指を四本折ってそう答える。


「待て待て待て待て。爆弾テロを起こせるって俺の神奈川県警時代の経歴のこと言ってる? んなもんでテロリスト認定してたら日本中テロリストだらけだぞ」


 もっともな指摘に累は口ごもる。

 累もたしかにその点については確信が持てないでいた。証拠がないのだ。八森が爆弾テロに関わっていたという証拠が。

 しかし、八森のその経歴についてはあくまでピースが綺麗に嵌まったという程度のことで、本丸は別にある。


「鳥居百合子がとくべつって言っていたのはどういうことですか。鳥居が百合子と八森さんの間にできた子だからじゃないんですか」

「はあ? なんじゃそりゃ。俺はこれでもカミさんひと筋二十八年だ!」


 八森は素っ頓狂な声を上げる。

 しかし八森がなんと主張しようと、こちらには証人がいる。


「八森さんが鳥居百合子としょっちゅうホテルで密会してたのを見たって目撃証言があります。朝帰りしてたって」


 昨夜、百々にはこのことは言えなかった。父親代わりの八森が母親をテロリストに仕立てたモリミヤジンで、その上それが本当の父親だったなんて知ったら、百々は本当に立ち直れなくなるかもしれない。だから他にこのことを知っている人間の口を塞いででも、このことは自分が墓場まで持って行こうと考えていた。


「そいつ誰だ。そりゃマル目が記憶違いをしているか、お前一杯食わされたんだよ。たしかに公安時代、俺は百合子にはしょっちゅう逢いに行ってた。でも、んな目的のためじゃあないし、ホテルなんかいっぺんも入ってねーぞ。あの頃、百合子は睡眠薬を大量に飲んで病院に搬送されたりして、とにかく不安定だった。放っておいたら死んでもおかしくないような精神状態だった。放っておけるかよ」

「口ではなんとでも言えます」

「じゃあ、DNA鑑定でもなんでもしてみろ。今すぐ。鳥居の毛髪でもなんでもその辺に落ちてんだろ」


 八森はあまりにも平然と言ってのける。背中を厭な汗が伝った。


「じゃああいつの父親は」

「知らねえよ。俺も百合子に一度は訊いたんだ。カネに困ってたから、せめて父親から養育費くらい分捕れねえのかって。でも百合子はヤり捨てられて相手の名前も知らねえって。そういう意味じゃ、百合子も被害者だ。この国にはそういう屑がごまんといる」


 八森はそう吐き捨てると、がりがりと頭を掻いてから累に向きなおった。


「鳥居百合子が俺にとってとくべつなのは、彼女の危うさを間近で見ながら、何度も忠告をしながら、結局奴が落ちるところまで落ちるのを止められず、挙句の果てに自決させてしまったからだ。自惚れだってこたぁ、分かってんだよ。でも、俺にはそれを止められる可能性が万にひとつはあった。それをみすみす見逃した。俺のデカ人生で最大の後悔で、最大の罪だ」


 絞り出すような声だった。

 疑いようのない、後悔と自責の念で押しつぶされそうな言葉に、累は声を失う。

 警察官なら、いやもしかすると人間なら誰しもが覚えのある境地。あのとき、自分がこうしていれば、ああしていれば。そうしたら、結末はちがったんじゃないのか。犬飼が、明星が、法村が。そう考えなかった日はない。


「鳥居もとっくに大人になった。百合子と俺の関わりについて、あの子に早く言うべきだとは思っていた。だがあの子の信頼を裏切りたくなかった。いや――ちがう、言えなかったのは俺の弱さのせいだってことも分かってる」


 八森は自分に言い聞かせるように蟀谷を揉んで言うと、深く息を吐き出す。

 八森の言葉をすべて信じるなら、彼は百々への罪悪感から本当のことを言えなかったということになる。

 しかし累は八森に食い下がった。


「じゃあなんで、パラ対に鳥居を引き入れたんですか? 鳥居を、傍に置いておくためなんじゃないんですか」

「アホか。んな簡単に組織を私物化できるか。ま、たしかに俺が鳥居を推薦したのに私情が入ってるのは認める。でも断じて、邪な気持ちからじゃあない。罪滅ぼしの意味は――少しあったかもしれないが。でもそれも、あの子の仕事の価値を認めたからだ。それにあの子の仕事は俺の私情と関係なく、上の判断できちんとふるいにかけられた。それを俺の執着だなんだって訳分からん理屈を捏ねるのは、あの子への侮辱だ。訂正しろ」


 凄むように言われ、累は反射的にすみませんと口走りかける。

 八森の言うとおりだった。今の累の問いはたしかに、百々の仕事を認めていないも同然の発言だった。百々の仕事の価値は、累もよく知っている。出逢ったばかりの累のように、彼女の仕事をインチキのペテン呼ばわりする人間が現れたら、今自分は平静ではいられないだろう。

 しかしまだ、いくつか分からないことがあった。


「そもそもパラ対立ち上げには、八森さんも大きく関わっていると聞きました。第四係と兼務してまでパラ対の役職に就いたのは、八森さんの意向もあってのことだと。八森さんが仕立てた犯罪者たちを守るためじゃないんですか」

「ちげーよ。立ち上げに関わったのは俺と俺の公安のときのキャリアの上司な。今じゃ雲の上のお偉いさんだ。まあ、それは置いといて、立ち上げのきっかけは『ひかりのいえ』。鳥居百合子だ」


 累は訝るように目を細めて、八森を見つめる。


「明星の事件のあとだったか、お前鳥居に言ったな。自分が見たことねえからって、存在を否定していいのか。なにか目に見えねぇもんを見落として、それを踏みつけにしていないかって。ありゃ、いい言葉だ。俺もそう思う」


 累がパラ対に来て初めの事件でのことだ。よくもまあ、そんな発言を覚えていると思って目を見開く。

 八森はオフィスのなかの河童のミイラやUFOの写真やオカルト本の数々を見渡して、言葉を続ける。


「サイコメトリーに神隠し、都市伝説、妖怪に幽霊、クレアボヤンス、エトセトラ。真偽はともかく科学じゃ解明できないもんは、ある種の磁力を持ってる。犯罪と似た磁力。無法の力だ。存在を否定された奴、踏みつけられた奴、守られなかった奴、何かを奪われた奴。逆に何かを奪ってしまった奴。そういう奴のなかには、その磁力に飛びついちまう奴がいる」


 科学では解明できないパラノーマルなものたちが持つ、犯罪と似た磁力。無法の力。そうかもしれない、と累は思う。

 正しいやり方ではどうしようもなくなったとき、人は一線を越える。甘い幻想に夢を見る。

 累がかつて死を選ぼうとしたのも、よく似た磁力だったのかもしれない。


「もちろん、犯罪者がみんなそういう奴だって言いたいわけでも、パラノーマルなものすべてが悪だと言いたいわけでもない。だがその磁力に任せて暴走して、取り返しのつかないことをしちまう奴もいる。俺はそれを大事になる前に止めたい。だから俺はここで、俺の仕事をしている」


 八森は、いつになく真摯な顔をしてそう言い切ると、一段声を落とした。


「俺はモリミヤジンは、その磁力に取り憑かれた奴だと思ってる。そうでもしなけりゃ、この世界の歪みに対抗できなかった奴。人の常識では測れない、得体の知れない力に夢を見た奴。ま、証拠はねえからお前と同じ穴の狢だが、俺にアリバイがある以上、お前よりは一歩リードだ」


 八森はざまあみろ、とでも言うようににやりと笑った。

 累は今度こそ八森に「申し訳ありません」と頭を垂れてからもう一度、百々の番号をコールする。


 お掛けになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため、掛かりません。


 何度聞いたか分からない音声がまたもや流れる。

 昨日の今日だ。たまたまワン切りして、たまたまその後音信不通になるとは考えにくい。百々はそういう、人を無意味にやきもきさせるようなことをする人間ではない。


 頭が真っ白になったまま立ち尽くしていると、八森に軽く背を叩かれた。


「大丈夫だ、落ちつけ」


 八森はそう言ってデスクに座り直すと、律儀に成り行きを見守っていた第三係の係長を帰して累を見上げた。


「大事な話を黙っててお前らを疑心暗鬼にさせた俺が言えたことじゃないかもしれないが、お前らしくねーな、境木。まずその俺の朝帰り疑惑とかいう不名誉なガセネタ、誰に掴まされた?」

「元公安の刑事です。八森さんの同僚だった、今はサイバー犯罪対策課にいる新井とかいう。まさかそいつが……?」

「いや――信じたくはないが、あいつは警察内部のモリミヤジンの協力者だろう」


 モリミヤジンには警察内部に協力者がいた。そう考えれば、一連の事件で情報が漏洩していたことにも、手際がよすぎたことにも説明がつく。

 それに、新井がついた嘘はモリミヤジン本人にしては杜撰すぎた。

 しかし、協力者であるにしたって、こんなに簡単に露見する嘘をわざわざつく意味が分からない。

 あの時点で累がモリミヤジンの正体に辿りついていて、それに気づいたモリミヤの忠実な駒である新井が、捜査を攪乱しモリミヤジンを逃走させるために嘘八百を並べ立てた――。そのような状況ならさておき、累は端から八森を疑っていて、真のモリミヤジンの正体になどまるで手が届いていなかった。その疑いを強めるだけのために、しかも八森が真実を語れば一瞬にして崩れ落ちる偽証などのために、共犯者を生贄に捧げたのだろうか。新井のただの自滅にしか思えない。


「新井が俺にガセネタを掴ませた理由が分かりません」

「いや……ちがう。おそらくモリミヤはこの状況を作りだしたかったんだ。これはお前の目を俺に釘づけにしてここに足止めさせるために、モリミヤジンが撒かせたフェイク。お前が鳥居の傍をうろついてちゃ邪魔だったんだよ」

「……どういうことですか」


 擦れた声で累は応じる。


「いくら現役デカの証言といえど、慎重なお前がそんなゴシップネタを一発で信じるとは思えない。そもそも、お前はなんでそんな話を突然嗅ぎまわり出したんだ? お前、もしかして俺に鳥居百合子との浅からぬ縁があったって話を他にも聞いていたんじゃないのか」


 そうだ。聞いていた。

 あの噎せ返るような花のにおいのする日本家屋で。

 だから、裏を取るために当時のめぼしい公安の刑事を嗅ぎまわった。そもそも累はあそこで百合子と八森の関係性について偶然耳にしたから、八森を疑うようになったわけで――。

  偶然?

 あのとき、店主はなんと言っていたか。

 八森が直接話したと言っていた。まるで酔っぱらって捜査情報を漏らしたかのように。

 しかし、鳥居百合子の顛末について、これほどの深い悔恨を抱いている八森がそんな迂闊なことをするとは思えない。そもそも累も見誤っていたが、八森は酔ったところで機密を漏らすようないい加減な人物ではないだろう。

 たしかに八森と百合子には浅からぬ関係はあった。だから累はモリミヤジンを八森だと思い込み、その証拠探しに奔走した。そうしてようやく手に入れた目撃証言は実はまったくの嘘八百で、しかし累は見当違いの推理でまんまとモリミヤジンを八森だと断定した。

 まるで、すべてが仕組まれていたかのように。

 ぞわりと悪寒が背筋を駆け抜ける。

 累は絶句して、八森の険しく歪められた眸をただ見つめた。


「俺と鳥居百合子の関係を知っているとすれば、俺と俺の公安のときの上司――そして百合子から直接それを聞かされていたであろう人物。モリミヤジンだけだ」


 鼻腔を、毒々しい花の香がくゆった。 南字遼。アルファベット表記は、「MINAMIJI RYO」。入れ替えれば、「MORIMIYA JIN」。

 そして奴の本当の名はおそらく――椛谷倫だ。


 最初から答えはそこにあったのに、一度はアナグラムを疑ってさえいたのに、まさかと笑ってその可能性を見逃した。いや、そのようにまんまと奴の掌の上で踊らされていたのかもしれない。

 椛谷には百々に執着する動機がある。百合子がしくじったせいで阿久津を仕留めそこね、復讐する機会を失ったなどと逆恨みのような感情を抱いていたとしたら――その娘である百々を散々揺さぶって苦しめてから殺そうとしても不思議はない。

 深く慕う八森がモリミヤジンかもしれないと告げられれば、百々はきっとあの男を頼る。自惚れでなければ相棒である累の言葉だったから余計に、百々は動じてしまっただろう。それすら見越して奴は盤上の駒を思い通りに動かしていたとでもいうのだろうか。

 ただひとつ分かっているのは、自身のミスで、みすみす百々をあの滴り落ちる毒の蜜のような男に明け渡したということだった。

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