第13話 青ばら

 長い長い雨季も終わりかけの朝だった。

 今朝は珍しい狐の嫁入りで、藍鼠色の空に光のつぶみたいに雨がちらちらとまたたいている。

 折り畳み傘についた露を払って、百々は『青ばら』の引き戸を引いた。


「おかえり、百々ちゃん」


 薄闇の奥から声がして、花の香がくゆる。

 昨夜、日付も変わってから家に辿りついた百々は、混乱のままに遼に電話をかけた。

 非常識な時間帯の連絡だったにも拘わらず、遼は電話に出て、支離滅裂な言葉を繰り返す百々の話を聞いてくれた。捜査情報を漏らすわけにもいかないので断片的な感情を吐露することしかできなかったのに、遼は根気強く寄り添ってくれた。そうして今日も定休日だったにも拘わらず、店を開けてくれたのだ。

 もっとも他に客を迎える気はないのか、遼は硝子戸に暗幕を張る。

 一段と濃くなった闇に、思わず身を委ねたくなるような安心感をおぼえた。


「意外だな」


 一輪の青いばらを差し出して、遼は百々をしげしげと眺める。

 百々が礼とともにそれを受けとってから首を傾げれば、彼は少し悪戯っぽく微笑んだ。


「昨日の様子じゃ、会った瞬間にわんわん泣きつかれるかと思ってた」


 百々はちょっと顔を赤らめて反駁する。


「しませんよ。もう子どもじゃないんですから」

「そう? でも大人になってからも僕の首っ玉に齧りついて泣いた日もあったし、何日も眠れなくて膝枕してあげた日もあった」


 指折り数える遼に、いよいよ百々はどこかに埋まってだんご虫のように永遠に丸まっていたい衝動に駆られる。


「すみません、反省しました。もうしません」

「それは残念」


 遼は嘘か本当かよく分からないことを言って、百々の目元に触れた。

 結局昨日は一睡もできなかった。コンシーラーで申し訳程度に隠してきたものの、顔はひどい状態になっているにちがいなく、気恥ずかしくなって俯く。


「立ち話もなんだし、奥に行こう。朝ごはんは食べた?」

「食欲ありません」

「スムージーは?」

「……お茶がいい」


 遼は百々の返答に苦笑した。「それじゃいつものだ」と少し淋しげに言いながらも、棚から茶葉と急須、湯呑みを取り出すとおぼんに乗せた。


 以前西東の事情聴取に使わせてもらった八畳間は今日は閉めきられ、庭園も濡れ縁も見えなかった。代わりに、先日は襖に隔てられていた隣の部屋が開放され、八畳二間続きになっている。

 その空間には、すっかり花の甘いにおいに慣れきった百々でも噎せ返りそうになるほどの、極彩色の花という花が一面に広がっていた。


「遼ちゃん、また個展でも開くんですか」


 精緻な硝子細工のように繊細な作品群に見とれながら、百々は尋ねる。

 そこにあるのは、花と骨だった。

 動物の白々とした頭骨や背骨と艶やかな花々が絡み合う様は、危うい情火が揺らめいているようで、くらりと眩暈さえ覚える。


「うん、そうかも」


 遼は曖昧に笑って、座卓の前に跪いた。

 ポットからお湯をそそぐ。百々の好きな、釜炒り茶だった。しかし香ばしい豊かな香気も、花の香に融けいってすぐに分からなくなる。


 百々は、手すさびに遼にもらった青いばらの棘に触れた。


「青ばらって、花言葉が変化したんですよね。たしか、『存在しないもの』から、『夢かなう』に」

「そう。十三年前に、開発が成功してね。ここをオープンしてすぐのことだったな」

「ロマンチックですね。遼ちゃんにぴったり」


 百々がはにかめば、遼はかちゃかちゃと茶器をいじりながら小さく、「僕の夢は叶わなかったけどね」とこぼした。


「……夢?」


 百々が拾った言葉には応じずに、遼は羊羹を切り分ける。


「でもここを訪れてくれたお客さんたちの夢がかなえば、それで上々かなって思っていたんだけど。それじゃあ、ちょっと折り合いがつかなくなって」


 遼は百々にはよく分からない話を続ける。

 返事は求められていないのだと察して、百々は用意された座布団には座らずに室内の花々を順繰りに見て回った。


 ふと、部屋の隅に花に埋もれるようにして置かれた人工物が目に留まる。

 作品に添えるネームプレートだ。小さな黒の細長い御影石に、金とも銀ともつかないインクで『MINAMIJI RYO』と名が綴られている。


 こくり、と喉が鳴った。


 百々は後ろを振り返りかけ、そうはせずにバッグの中のスマートフォンを手に取った。通話履歴の二番目にある、境木累という表示に指を滑らせる。

 耳元に押し当てたスマートフォンが、一回目のコール音を奏でた。急くように、指先に力を込める。

 その手を、強い力で掴まれた。


「せめて、お茶を飲む時間くらいはあると思っていたのだけど」


 遼は常の穏やかな声で言って、一歩も動けずにいる百々の手からスマートフォンを取り上げる。赤色の通話終了ボタンを押すと電源を切って、傍らにあった花瓶に無造作にそれを放った。和硝子でできた花瓶にはたっぷりと水が張られていて、見る見るうちに水底に端末が沈んでいく。


「そういう、無粋なことはしないでほしいな」


 見知った薄闇じみたまなざしが、知らない色をして百々をとらえる。


「ねえ百々ちゃん、僕の夢をかなえてくれる?」


 毒の花めいて、遼が微笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る