第12話 相棒

 夜雨が降っていた。

 赤提灯の灯る大衆居酒屋を後にし、百々はふわふわとした足取りで累と並んで駅までの道を歩いていた。傘を差してみたはいいものの、酔いと気まぐれに吹く風のせいでそれはあまり意味を成さず、肩口がじっとりと濡れていく。

 けぶる雨にぼやけたネオンの群れが踊り、間断なく自動車のヘッドライトの行き交う東京の夜は、華やかで騒がしい平穏に微睡んでいるように見える。

 けれども、この街のどこかに、人を闇に引きずり込む鵺のような人間が息を潜めているのだった。


 結局捜査一課の取り調べにおいて、上遠野ら学生の口からモリミヤジンに関する情報は何ひとつ語られることはなかった。八森も百々らと上遠野のライムのやりとりを証拠として提出し、明星に続く事件の黒幕の存在を上層部に訴えてくれたようだが、今のところそのような人物が本当に存在する証拠は挙がっていない。

 進展しない捜査に業を煮やし、ふたりともに非番の日を翌日に控えた今宵、どちらからともなく誘い合って夜の街に繰り出した。

 もっとも、お互いに一番気になっているであろうモリミヤジンについては一言も話せないまま、今回の事件に関する愚痴を垂れ流しにするだけで終わってしまったが。


 もうすぐ地下鉄へと続く駅の出入り口の表示が見えてくるという頃、不意に累が立ち止まった。

 終電前の日曜の夜ということもあって、道行く人々は足早にすぐ傍を通りすぎていく。


「境木さん?」


 振り返れば、街灯の灯りの下で累が百々を見つめていた。

 先ほどまでとろと夜半に融けていた目尻はきつく結ばれ、仄かに朱をまとっていた頬も、常の素っ気なさを取り戻している。


「鳥居は、もしモリミヤジンを見つけたとしてどうすんの?」


 の名に、わずかに残っていた酔いがひと息に醒める。

 それがトリガーであったかのように、モリミヤジンから届いたライムのメッセージと鳥居家の墓の写真がフラッシュバックした。


「どうするって、」


 周囲の闇が遠ざかり、眼裏に穏やかな陽射しの差し込む、窮屈で古ぼけたワンルームが浮かび上がる。こぼれ落ちる星くずじみたまどかな言の葉を聴き終わらないうちに、今度は驟雨に感覚を鎖された。八重咲の紫陽花の青紫。膚に触れるぬるい温度。絡みつく重たい湿気。世界を切り裂くようなサイレン。そして青白く透けた母の――。


 潮が満ちる。

 情動の正体が今、はっきりとした形をもって百々の眼前に立ち現れる。

 雨音がやみ、世界が穏やかにとじていく。聴こえるのは、子守唄のような波の音だけだ。振れ続けていた天秤がぴたりと止まるように、まるでそうあることが太古の昔から定まっていたかのように、すべてが寸分のくるいもなく調和する。春の午後の微睡みに落ちるように心地がよくて、百々を煩わせるものはなにもない。

 百々は一瞬の躊躇いを打ちすてて、その感情を大事に胸にしまい入れた。

 けれど――。


「――痛いですよ、境木さん」


 ぎりぎりと、手首を締め上げられる痛みに声を上げる。

 累は我に返った様子で、「悪い」と言って手を離した。しかし、その眼差しは百々に縫いとめられたままだ。

 累の眸は、爛々と燃えていた。百々が瞬きをする刹那、唾を飲みこむたまゆら、その一挙一動を見逃すまいと全神経をそそいでいるのが手に取るように分かった。

 だから百々は、累に悪いと思いつつ瞼を下ろして俯く。僅かに聴こえていたノイズが遠ざかる。累の体温の名残や彼の眼差しが消えると、よりいっそう気分が落ちついた。


「ひとりになるなって言ったの、憶えてる?」


 累の声も、もうさほど百々を揺るがしはしなかった。


「ええ」

「絶対忘れねぇって誓うか」

「……ええ」


 我ながら、気だるい雨に融けてしまいそうな、ゆらゆら揺れるくらげじみた返答だと思った。

 累は辛抱強く百々が視線を上げるのを待った。腕を掴まれ、間近で眼と眼がぶつかる。

 百々の折り畳み傘が、ゆるやかな放物線を描いて路面に落ちていった。


「おまえ、この間上遠野に言ったよな。あいつに、あいつの人生を生きろって。そのためならなんでもするって」

「……ええ」

「それは、おまえがおまえの人生手放してちゃ、できねえ約束だ。あいつは約束を破られて、人生どん底まで転がり落ちた。おまえにまで破られたら、あいつはもう、戻ってこられない。おまえは、そんなことはしねぇよな」


 いつも乱暴でストレートな物言いをするくせに、この期に及んでこの人は、本当に言いたいことは言えないのだなとどこか冷静に思う。


 ――モリミヤジンを殺すな。


 その一言が言えない。

 もしかすると、言葉にしたら、本当にそうなってしまうとでも思っているのかもしれない。累が随分前から百々を通して誰を見ていたか、なにをおそれていたかなんてことは、問わずとも分かっている。

 だから目を充血させて、歯を食いしばって、他人との約束を重石にしようとする。


 百々は微かに笑った。

 七つも上の、図体も態度も大きいこの人が、熱に浮かされた子どもみたいに眸を潤ませて百々の袖を皺ができるくらいきつく握りしめている。

 累は百々の浮世から隔絶したような笑い声にも動じずに、愚直なまでにまっすぐにこちらを見つめた。

 なあよく聞けよ、と懇願めいた口調で言って、耳を覆っていた百々の髪を掻き上げる。


「黙っていようかとも思った。全部終わってから話そうかとも。だが、そうしたらきっとおまえは俺のことだって信用しなくなって、結局どうせひとりになる」


 累は急に、訳の分からない理屈を捏ねる。百々の冷めた目を見つめて、それでも馬鹿みたいに真面目な顔をして言いつのる。


「そんなのは嫌だと思った。俺は、この先もおまえと同じ道をゆきたい。鳥居と、相棒でいたいと思ってるから」


 刹那、百々のとじられた世界に雨音が戻る。

 その五月蠅さに、百々は片耳を塞ぐ。累の声は、いつだってそうして百々をみだす。


「だから、言う」


 累はそう言って、みずからの最近買ったばかりの巨大なワンタッチ傘を百々に差しかける。ビニールがぼつぼつと雨をはじく音が煩わしいのに、累から視線を逸らせない。


「モリミヤジンじゃねぇかって疑っているひとがひとりいる」


 百々は目を見開いた。

 累が息を吸う音が、妙にはっきりと鼓膜を揺らす。永遠にも思える沈黙ののち、累はその名を口にした。


「――八森さん」

「まさか」


 声が擦れて、心臓が歪な音を立てた。

 なによりも大事に胸にしまい入れたはずの情動が、いとも簡単に瓦解する。


「八森さんは、鳥居百合子が教団を立ち上げる前から、彼女をマークしていた。当時の公安の刑事にも色々聞き回って、裏も取れた。鳥居がモリミヤジンについて、教団立ち上げ前から接触があった人物だと考えていることをあの人は知っている。奴の情報を握っている可能性があるのに、その経歴をあの人は鳥居に言っていない。やましいことがあるからじゃないのか」


 百々は拳をきつく握りしめる。

 累の言うとおり、八森からそんな話は一度も聞いたことがなかった。八森は『ひかりのいえ』がこの国の脅威となってから、事件に関わるようになったのだとばかり思っていた。

 でもそれは本当はちがう? 八森は、百々を騙していたのだろうか。


「八森さんが神奈川県警で爆発物処理班にいたのは知ってるだろ。テロ事件より前のことだ。八森さんなら、爆弾テロのレクチャーくらい朝飯前だ」


 たしかに、モリミヤジンのこれまでの手口を考えれば、八森はこれ以上ない相手ではある。

 八森であれば、犯罪の知恵を授けることも、爆弾を融通することも、証拠を跡形もなく消し去ることもできるだろう。かったるいだの面倒だのと悪態ばかりついているが、あれで優秀な刑事であることは、長年彼を傍で見てきた百々がよく知っている。

 百々も元々、モリミヤジンは警察関係者か、もしくは警察に顔が利く人物の可能性があるとは考えていた。

 しかし、理性ではそう思いながらも納得できない気持ちもあった。モリミヤジンと八森では、あまりに人間性がかけ離れている気がする。


「……動機は。それに八森さんでは、私に妙なメッセージを送りつけてくる理由がありません」

「それは――俺にも分からない。だが、モリミヤジンは狡猾な人物だ。八森さんが俺たちの前で見せていた姿は全部偽りだったのかもしれない」


 普段接する八森は甘味が好きで、よく妻と娘の話をして、だらしないところもあれば、まっとうな大人や刑事の顔をする百々の一番身近な人間だった。

 カルト教団の導師の娘という記号でしか見られなかった百々を、はじめから百々として扱ってくれた人物。八森がいなければ、今もこうして生きていられたか分からない。

 あれも全部、百々を欺くための偽りだった?

 目頭が熱い。呼吸がくるって、心臓がひどく煩い。

 クナド様事件を追うさなか、累が怪我をして休んだ日。八森が百々に見せた冷えた眼差しが脳裏を過ぎる。

 あのとき、八森は終わりにしなきゃならん、と言った。なにを? 百々とのままごとのような関係を?


「少し、時間をください。私でも考えてみます。八森さんが、モリミヤジンである可能性。考えがまとまったら、いえまとまらないかもしれませんが、連絡していいですか。……非番ですけど」

「いいに決まってんだろ、相棒だろうが」


 累はそう言って、百々の傘を拾い上げて歩き出す。

 改札口に着いて、上りと下りのホームに分かれる寸前、累はまた「鳥居」と百々の名を口にした。

 その顔があんまり不安そうで、迷子の子どものようで、百々は淡く微笑んだ。


「連絡しますよ」


 それでも累はその場を動かない。

 最終電車の到着を知らせるアナウンスを聴きながら、百々は彼の大きな身体を反転させると、ぐいぐいとその背を押した。


「連絡します。約束です」


 駄目押しのように、言葉を重ねた。

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