最終話 或る晴れた日
その後、クナド様事件の顛末は、或るひとりの女子大生の告白によって、ほんの少し風向きを変えることになる。
上遠野吟と青春時代をともにしたというその女子大生は、彼が昔音楽室で作曲したいくつかの楽曲を、学校の備えつけの古いカセットテープに録りためていたという。その音声のなかに、『遠い日の戀歌』の原曲が見つかった。事件後に録り下ろした捏造だという声もあったが、学校側が数年間倉庫に保管していたと証言したこともあって、世間が上遠野に向ける眼差しは変容しつつある。
上遠野に面会を果たした年若い弁護士は、頑なに心を閉ざしたその青年に辛抱強く語りかけた。
「正しさを信じられる世の中なんだって、信じてほしい」
ついには弁護士を視界に映した上遠野に、彼は柔らかく、けれど透徹とした眸で告げる。
「おれが子どもの頃に憧れたひとは、そういう社会のために弁護士を目指していたから、おれもそういうものになりたいと思って頑張っているんだ」
弦間英の楽曲を重用していた芸能界からも、声が上がった。
いくつものフラッシュの焚かれる記者会見場で、冴えわたるような美貌の女が質問を受けている。この女が主演を務める民放の連続ドラマは、弦間の主題歌を使用しないことに決めたらしい。
犯罪者に同調するのかという声もありますが、という記者の問いに女は決然とした口調で答えた。
「彼の犯した犯罪を擁護するつもりは一切ありません。ですが、それとは別に、楽曲の提供者が立場の弱い少年を搾取していたかもしれないという問題がある。その真偽については裁判の結果を待ちたいと思いますが、そうして踏みにじられたものから目を逸らして、なかったことにして、黙ってそれを容認することは、加害に加担していることと同じです。――なかったことには、させない」
それから、もうひとつ。
なんの因果か、約二十年の時を経て、週刊誌に時の官房長官・阿久津の汚職の告発記事が掲載された。すでに阿久津は他界しており、その罪が裁かれることは永遠になく、失われた命も失墜した信頼も元には戻らない。だが、それでもひとり汚名を着せられ、死んでいった椛谷秘書官の名誉は回復することになりそうだった。
南字遼の自宅からは爆弾テロ事件や超常犯罪者の起こした事件に関与した証拠がいくつか見つかった。彼の戸籍はでたらめなものであったことも分かったが、モリミヤジンは便宜的に南字遼の名で司法の手に委ねられることになる運びだ。
椛谷家に血縁はなく、結局取り調べを通しても百々たちが捕まえたモリミヤジンが本当は何者であったのか、いまだ分かっていない。モリミヤの共犯として捕らえられた新井も司法取引の誘いにも応じず、驚異的な忠誠心で完全黙秘を貫いている。まるで人が変わったかのような新井の変貌ぶりに、おしゃべりな彼を知る警察関係者たちは皆困惑を隠せずにいるようだった。
モリミヤジンにまつわる事件の全貌が光で照らし出される気配はまだ、ありそうもない。
けれど、ただひとつ言えることがある。
百々が生きていく世界は、これでなかなか捨てたものではない。
* * *
雨上がりの晴れわたった空に、小鳥たちの囀る声が響いている。暫くぶりの休日、百々は累と並んで木洩れ日の落ちる並木道を歩いていた。
累は最近、日子の家にご飯を食べに行ったらしく、その時の話をしている。眼差しの縁に塞がりきっていない傷がいまだ横たわっているのを見とめて、百々は人ひとり分空いていた距離を一歩詰めた。
白と青を基調とした花束を抱えて、百々はいくつもの墓碑の建ちならぶ、整然と区画された直線的な道を一歩一歩辿っていく。やがて小さな、鳥居家と家名の彫られた御影石が見えてきた。
累が手に持っていた手桶と柄杓を百々に手渡す。百々は礼を言ってそれを花束と交換すると、ミモレ丈のワンピースの裾を少したくし上げて、墓碑に柄杓で水をかけた。バッグから取りだしたタオルで、その滑らかな石を拭く。茶色くなったそれを折り返して、何度かその行為を繰り返した。
この場所に辿りつくまでに、十四年と少しの歳月が流れた。
いくら母がその周りにいた人間たちに甘言を囁かれていたのだとしても、彼女は判断能力のある大人で、最終的に多くの人の命を奪う指示を下したのは彼女だった。その罪は決して赦されるものではなく、百々が生涯記憶していかねばならないものだ。
この場所に来ることは、そんな母を赦すのと同義に思えた。愛情という耳ざわりのいい言葉の名の下に、母のしでかした過ちの犠牲になった人々を踏みにじるようで、とてもそんなことはできないと思っていた。
けれど。
モリミヤジンの事件終結後、それでも頑なに母の墓前を訪れようとしない百々にある日累が言った。
「母親を慕う気持ちと、罪を憎む気持ちは分けて考えてもいいんじゃないのか」
「そんな都合のいいこと――」
「俺もヤーさんの犯した罪を絶対に赦さない。けど、あのひとのくれたもんが、俺の根っこにある。この先ずっと連れていく。それをなくしたら多分、ばらばらになって、とてももう生きらんねぇよ」
累は、顔をくしゃくしゃにした百々の髪に手を差し入れて、懇願にも似た目をしてささめく。
「だから頼むから、墓参りくらいはゆるせよ。おまえがこの先、生きていくために」
ざっくり言うと、そのような経緯があって、百々ははじめて鳥居家の墓を訪れることになった。
百々は母の墓前に花を供えて手を合わせると、累を振り向いた。
手持ち無沙汰にほとんど中身のなくなった手桶の水を撒くなどしていた彼は、思い出したように「そういやさ」と声を発した。
「まだその似合わねえ肩書、名乗り続けんの?」
「サイキックハンターのことですか? それなら廃業しようと思います」
「……俺の相棒も辞めるってこと?」
「辞めません。八森さんに貰った肩書を名乗ります」
百々の宣言に、累が噴き出した。
「あのだっせぇの?」
「ええ、だっせぇのです。怪異コンサルタント」
「笑えるな」
「笑える元マル暴デカの相棒には、釣り合いが取れてちょうどいいでしょう」
皮肉だか軽口だか悪口だか分からない百々の言葉に累は肩を竦めて、墓碑に目をやった。
「もう、いいのか」
「ええ、またそのうち来ます。来られます。これからはきっと」
累は束の間眩しげに目を細めると、百々に一歩歩み寄った。
「帰るぞ」
すっきりと雲ひとつない青空の下で、雨音はまだ聴こえる。雨雲が晴れることはもうないのかもしれない。それでも、帰る場所があると思える。
差し出された厚い掌に、指を絡めた。
<了>
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