第6話 追憶
中庭にある大きな銀杏の木の下には、こじんまりとしたウッドベンチがあった。霧雨こそ降っていたが雨宿りをするには十分で、女子学生は百々たちをそこに案内すると、おっかなびっくりちょこんと座った。
「後をつけるような真似をしてすみません。さっき、おふたりが九〇五号室にいるのを見かけて、気になって追いかけてしまったんです。今日は警察の人が来るって話も聞いてたし……」
女子学生は雨に濡れた子犬のように項垂れて、しきりに頭を下げた。
「お気になさらず。あなたも同好会の方ですか?」
「いえ……でも元同好会メンバーで佐藤って言います。大学一年生です。わたしも、クナド様にライムを送ったことがあります」
律儀に学生証を提示してそこまで言ってから、佐藤は躊躇うように視線を彷徨わせた。
百々が目だけで先を促せば、薄く色づいた小づくりな唇が戦慄く。
「わたし、クナド様の中の人が誰か、知っているかもしれません」
少し青ざめた顔で、佐藤はそう告げた。
思わず累と目を見合わせている間に、佐藤はスマートフォンを操作する。少しして、佐藤は一枚の写真を見せてきた。
制服姿の少女と少年が浅草の雷門前でピースをして写っている。今とは違って化粧もしておらず幼い印象があるが、少女の方は佐藤だろう。
佐藤はそっと写真の少年に触れると、重たい口を開いた。
「
佐藤はぽつりぽつりと話し始めた。
「上遠野くんはわたしと同じ福島出身で、震災があってこっちに避難をしてきてから知り合いました」
福島、震災。最近では、聞く機会も少しずつ減ってきた言葉だった。
なんとはなしに、背筋が伸びる。
「越してきた当時、わたしはまだ小学生でした。なかなかこっちの生活に馴染めなくて、友達らしい友達もできなくて。それでもなんとか意地で中学に上がりました」
佐藤は凪のような目をして、静かに続ける。
「上遠野くんは、中学一年生のときのクラスメイトです」
上遠野も佐藤と似たような境遇の持ち主だったという。都会に馴染めないはみ出し者同士、馬が合ったのかもと佐藤は笑った。
ふたりは皆が部活をやっている放課後、教室でくだらない話をしたり、吹奏楽部が活動していない日に音楽室にたむろしたりして過ごすうちに仲良くなっていったのだそうだ。
「音楽室?」
「上遠野くんの趣味は、音楽だったので。あんなことがなければ、ずっと福島の家でピアノやヴァイオリンや……楽器に囲まれて、作曲してたと思うって。かっこいいですよね。中学生が、作曲とか言うんですよ」
佐藤は胸に抱いたトートバッグをぎゅっと引き寄せて、照れくさそうに笑った。
「ある秋の日、話したんです。わたしの家の近くには、お人形様っていう神様がいて、悪いものを退けて守ってくれたんだよって。だからわたしの家は駄目になっちゃったけど、お母さんやお父さんやお兄ちゃんは無事だったのかもしれないって」
「お人形様?」
累が不可解そうに言う。
「道祖神の一種です。そう言われてみればこのライムのクナド様のイラスト、お人形様によく似ています」
百々が累の疑問を引き取って解説する。佐藤は痛みをこらえるように、微笑んだ。
「上遠野くんは、わたしが見せたお人形様の写真を撫でて、いいなあって何度も言っていました。ぜんぶ、あの日のことからも、守ってくれればいいのにって」
それはなんてやさしく、切実な夢だろう。
あの日。百々はまだ佐藤と同じくらいの年齢で、大学入学を目前に控えて施設を出て、ひとり暮らしを始めたばかりだった。
必死に地震をやり過ごしたあと、茫然とテレビ画面を見つめていたのを憶えている。
現実だとは到底思えないような惨禍を眺めながら、なにかがずたずたに毀れてしまったのを思い知った。
被災地にとくべつ縁深くもない百々は、震災から時が経って、震災関連のテレビ番組をスイッチひとつで消してしまえるようになった。
けれど、佐藤と上遠野にとってはそんな簡単な話ではない。
あの日故郷を奪われたふたりにとって、あの日は地続きにすぐ傍にあって、今の暮らしに深く絡みついている。
今朝、なにも考えもせずにテレビリモコンの電源ボタンを押した人差し指を、百々は片手で強く握り込んだ。
「上遠野くんとは、高校は別の学校に行くことになりました」
高一のうちはしばしば会っていたが、上遠野の父親が入院することになってバイトで忙しくなり、それっきりになったという。
その後一度は上遠野の住宅を訪れたらしいが、自主避難者の住宅支援が打ち切られて彼の一家はそれまで住んでいた家を出ることになったらしく、その後の消息は分からないと佐藤は表情を曇らせた。
上遠野が進学したことは、風の噂で聞いたそうだ。
「クナド様のライムのことは、学部の友達に教えてもらって知りました。お人形様に似てるなって思って、懐かしくなって。最初は他愛もない話をしていました。クナド様の好きなものはホッキ飯で、嫌いなものは『遠い日の戀歌』だなんていう」
「ホッキ飯?」
「上遠野くんの故郷の、郷土料理です。中学のとき、好きだって言ってて。でも、そのときはただの偶然だと思っていました」
そんな矢先、佐藤は久々に故郷のことでバイト先のスタッフから心無い言葉を掛けられ、思わずクナド様に愚痴を言ってしまったのだそうだ。
「そしたら一週間後、バイト先の本社にクレームが入って、その人がクビになったんです。テイクアウトの商品に虫を入れてる写真がトリラーにアップされたとかで。その人はトリラーは自分のものではないと言っていて、真偽は分かりません。偶然かもしれないけど、わたし怖くなって。その日の夜、クナド様からライムがありました。君のことは絶対に守るから、なにかあったらすぐに言ってって。あくまでクナド様の口調だったけど、なんだかわたし、上遠野くんの声にも聴こえたんです」
他のクナド様に助けてもらった人たちは、そんなライム送られてきたことないっていうし、と佐藤は付け足した。
「それで、クナド様について探ろうと同好会に?」
「はい。でも結局、クナド様が誰なのかは分かりませんでした。どんどんエスカレートしていくクナド様の仕返しに熱狂する人たちに付いて行けなくて、同好会はやめたんです」
そこまで言ってから、佐藤は「すみません、こんな曖昧な話」と恐縮した。たしかにこれだけでクナド様が上遠野だと断定することはできない。
「だけどもし、もし、クナド様に上遠野くんが関わっているんだとしたら、もうこれ以上罪を重ねてほしくないんです」
佐藤はそこまで言うと、なにかとんでもないあやまちを犯してしまったかのように、膝の上の両手を強く握りしめた。こんな密告みたいな真似をして、上遠野くんはわたしのこと、一生憎むかもしれないけど、でも、と声を詰まらせながら足元の水溜りに視線を彷徨わせる。
佐藤の声は、梢を叩く雨音にも掻き消されそうだったが、「でも」の先に立ちのぼる切実な祈りに気づかないでいられるはずもなかった。
佐藤はますます青ざめて、それに、と続ける。黒目がちの透きとおるような眸から、ほろ、と涙がこぼれ落ちた。
「わたしが余計なことを言ったから、上遠野くんはクナド様になんかなっちゃったのかもしれない」
その言葉に、心臓が握りつぶされるように痛んだ。
――おかあさんは、魔法つかいだね!
彼方から無邪気な子どもの声が聴こえてきて、息もできなくなる。佐藤にそんなことはないと言ってやりたいのに、声が出ない。
そんな百々の代わりに、すぐ隣で砂利を踏む音がした。
「――人は良きにつけ悪しきにつけ、誰かの影響を受けるものですが」
佐藤がそろりと顔を上げる。
累が、佐藤の前に跪いていた。スラックスが濡れるのにも構わず、水溜りの上に膝をついている。
「あなたが唆したならまだしも、自分で考えたすえの選択はそいつひとりのものです。もしその上遠野があなたの話を元にクナド様を作り上げ、相手に非がありゃなんでもしていいなんて馬鹿をしでかすようになったのだとしても、あなたはなにひとつ悪くない。そしてそういう大切な思い出を汚して犯罪に利用するそいつは、ただのクソ野郎だ」
「……上遠野くんは……!」
累の物言いに我慢できなかったのか、佐藤は声を上ずらせて立ち上がる。
「もっとも、もし上遠野が犯人なら、奴が底の底に落ちる前に止める。大丈夫だよ」
累はあるかなきかの笑みを、口の端に乗せる。
その場に突っ伏して泣きだした佐藤の背を、百々は彼女が泣き止むまでそっと撫でてやった。
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