第5話 情動
その日の遅い昼食は、早穂田大学の学食で摂ることになった。
累がカツカレーの大盛りを掻っ込んでいる横で、百々は持参したマイ水筒の緑茶を啜りつつ、ざるそばに舌鼓を打っていた。ちなみに累は醤油ラーメンと豚丼を平らげてからの三皿目である。
普段、捜査で忙しくなるとゼリー飲料などで済ませたりもしているのに、ときたま箍が外れたみたいにもりもり食べる。
胃袋が宇宙空間につながっているのかもしれない。
「前に境木さん、モリミヤジンは自殺した元法務大臣・阿久津の秘書の息子、椛谷倫かも、って言っていましたよね」
百々はそうぼんやりと口火を切ってから、今が食事時だったことを思いだした。
「あ、すみません。こんな話」
「ホトケ見たあとに飯食うような仕事だぞ。今さらなんだよ」
累は苦笑して水をがぶ飲みすると、百々に向きなおった。
「……言ったが、あれは鳥居も言ったようにぶっ飛んでる。アナグラムなんて、よほど自己顕示欲の強いやつか、よほどその名前に執着のあるやつしかやんねえよ。モリミヤジンは相当狡猾な知能犯だ。そんな危ない橋を渡るとは思えない」
「ええ……」
百々も累の思い描くモリミヤジンの人物像に異論はない。これまで何度もこちらを翻弄するようなメッセージを送ってきていながら、いまだ百々はその尻尾すら掴めていないのだ。
「だけどもし、と考えたんです。もし椛谷少年が生きているとしたら、どうするだろうと」
先ほどの学生たちと同じで、踏みにじられた当事者はその記憶を簡単には手放せない。
椛谷の家族は、阿久津の悪徳とその責任逃れのための犠牲となった。もしそのように椛谷が考えていて、彼が家族を深く愛していたのだとしたら。
「――私が彼なら、阿久津に復讐する」
百々の言葉に、累はたまゆら時をとどめた。
表情に変化はなかったが、彼が傷ついたのだとはっきりと分かった。累の復讐殺人のトラウマは根が深い。
百々は慌てて、「たとえ話です」と言葉を重ねた。
「そもそも、阿久津は殺されてなんていないですしね」
「……ああ、阿久津が癌で死んだのは、たしか『ひかりのいえ』一斉検挙の翌年だったな。まあ、『ひかりのいえ』の暗殺の標的になったこともあったが、辛くも生き延びた。阿久津ひとりが狙われたならまだしも、著名な政治家はだいたい狙われたから、椛谷とモリミヤジンを結びつけるには根拠が薄い」
平生の調子を取り戻した累に内心ほっとしつつ、百々は頷いた。
「たとえばもし、阿久津への復讐のために椛谷が名を変えて蘇っていたとしても、阿久津は病気で死んで、その目的は遂げられることはなかった。そうなると案外、目的を失った彼は物騒なこととは無縁で暮らしているかもしれません」
百々らしくもない楽観的な言葉に、累は唇を緩めた。頬杖をついて、殆ど曇天に覆われたぬるい午後の陽射しに融けいりそうな眼差しで問う。
「おまえは?」
「え?」
「鳥居は、モリミヤジンに逢いてえの、逢いたくねえの?」
その声音があまりにもやわらかいので緊張を解いてしまったが、核心に迫ってくる問いだった。百々は一瞬、答えに窮して視線を彷徨わせる。
累のまなこは、いつの間にか常の猟犬の鋭さを取り戻していて、百々はいきなり喉笛に噛みつかれたような錯覚に陥った。
「……早く、白日の下に晒されるべきとは思います。逢いたいのか、逢いたくないのかは正直自分でも分かりません」
なんとかそんな当たり障りのない言葉を返したのに、累はまだ視界の縁に百々を引っ掛けていた。
彼が本当はなんと聞きたかったのか、百々はたぶん九分九厘理解している。
百々が自分でもその正確な形を掴みきれていない、情動の正体。いまだ名を持たない、けれど確かに百々の腹の底で寄せては返す、ゆるやかな波。やがて満ちゆくもの。
百々は累の視線から逃れるように、明後日の方向を向いた。意図せず、見知らぬ誰かと目が合う。女子学生だ。
すぐに目を逸らされ、百々もなんてないふうを装って俯く。それからまた少しして累の影からそっと様子を伺えば、やはりその女子学生はこちらを見つめていた。
「――彼女、」
百々が擦れた声で囁くように言えば、ようやく累の眼差しの呪縛から解放された。
「境木さん、私たちを見ている学生がいます」
「ああ、一時の方向にいる、おだんごの髪の女子学生?」
累は女子学生を振り返りもせずに相槌を打つ。
「ええ、そうですけど。気づいてたんですか」
「まあな。九号館からずっと、俺らのことをつけてる」
百々は弾かれたようにもう一度、一時の方向を見た。
九〇五号室にはいなかった女子学生だ。教室の外から盗み聞きでもしていたのだろうか。それよりも。
「……そんな大事なこと、今の今まで黙ってたんですか」
「いや、害意は感じられねえし、飯でも食ってる姿見せりゃ話しに来るかなって。見失いそうになったら追いかけるつもりだったし」
累はなんでもないことのように、平然と言ってのける。
百々はますます腹が立ってきた。
「……今後一切、境木さんの信用だの信頼だの相棒だの、そういうリップサービスは信じないことにします」
「なに怒ってんだよ」
「怒ってません」
そんな言い合いをしながら返却口におぼんを返し、百々は女子学生に近づいた。
累では確実に警戒されてしまうだろうという判断だったが、あと三メートルくらいに迫ったところで女子学生はひらりと身を翻してしまう。
「あ、待って!」
百々の制止も振り切って、女子学生は小走りに走り去っていく。学食の入り口まで差しかかったところで、いつの間にか回り込んでいたらしい累が彼女の前に立ちはだかった。
仁王立ちしているだけで無駄に相手を威圧してしまう累は、早々に百々に役目を譲る。
「怖がらせてしまってすみません。ご存知かと思いますが、警察です。なにかお話があるなら、話していただけますか?」
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