第4話 クナド様同好会
信号が黄色く点滅をして、ゆるくブレーキペダルを踏む。七月二十三日の今日は、早穂田大学クナド様同好会の聞き取りの日だ。
フロントガラス越しの横断歩道を地味な傘を差したビジネスマンたちが行き過ぎる。それを眺めやるのも早々に、百々は助手席をそろりと一瞥した。
「なに?」
さすがの目ざとさで、累が首を傾げる。
「なにって……それはこっちの台詞です。なんだかピリピリしてません?」
「……してねぇ」
「その間が境木さんらしくないですよ。私にはプライベートまで漏れなく話せみたいな圧を掛けてくるのに、自分のことはだんまりですか?」
「は? んな圧かけてねぇよ。信号青」
そう言って、累はいくつもの水滴でぼやけたフロントガラスの向こうを顎でしゃくる。百々はアクセルを徐々に踏みながら、ワイパーの速度を一段階上げた。
百々が内心苛立っている気配を察したのか、累はサイドウィンドウに頬杖をついてこちらを見やる。
「次に情報が入ったら、必ず話す」
「情報の確実性については精査してからでなくてもかまいません」
「分かったから、ちょっと待て。つーか、鳥居はいねえの。今まで、こいつがモリミヤジンかもって思ったやつ」
その問いに、百々は一瞬言葉に詰まった。
「……数えきれないくらいの人を疑いましたが、これという人は」
累はなぜか、自分の発言を悔いるように唇を歪ませて押し黙った。
「モリミヤジンについては、現状、手持ちの駒を並べて考えてみたところで手詰まりです。それに、私はおそらくモリミヤジンに関して平静な判断を下せない。クナド様とモリミヤジンが結びついていると思い込むのも危険かもしれません」
「たしかにな。選択肢を狭めすぎたかもしれない。ならサイキックハンター殿のクナド様に関する新しい見解は?」
「……べつに新しい見解でもありませんが、まだ言っていなかったことがあります。クナドやフナド、賽の神といった境界に置かれた魔除けの神は、元来
百々の説明に、累は難問にぶち当たったかのような顔をして押し黙る。
「分っかんねえけど、おっかねえってこと?」
「ええまあ、それでいいです。境木さんは」
百々は空いているコインパーキング探しに没頭し始めたこともあって、雑な返事をする。
累はあからさまに厭そうな顔をしつつも、そこの信号左折したコンビニの隣、とナビを買って出た。
程なく大学から徒歩十分圏内の駐車場に車を停めることに成功し、百々たちは学生街を歩き始める。
「都市伝説の時点では、クナド神にまつわる民俗とはまったく関係のない話かと思っていました。でも、このライムのアイコン画像は明らかに境界に置かれたカミをデフォルメしたものです」
そう言って、百々はスマートフォンの画像フォルダをタップして、日本各地の藁などで作られた魔除けのカミを次々に累に見せる。
累にはどれもこれも似たり寄ったりの人形に見えたようだが、ライムのイラストとの類似性は分かってもらえたようだった。
「そうなると気になってくるのは、ライムで繰り返される、みんなを守るというフレーズです。このクナド様はなにを魔と定義し、どのように“みんな”を守ろうとしているのでしょうか」
「警察がキライな、みんなを守る悪神、ねえ」
累の訝しげな声が、波紋のように不穏に熱と湿気を帯びた大気をふるわしていく。
大学の正面玄関で受付を済ませ、百々たちは約束していた九号館へと向かった。
今日は夜から天才音楽家・弦間英の講演会があるらしく、その案内看板がいくつか立っている。広々としたキャンパスには、様々な装いの若者たちが行き交い、夏休み前の浮き足立った気配が満ちみちていた。
ほんの数年前までは百々もこうして活気ある学び舎に通っていた身だが、すでにどこか眩しくて近づきがたいような、一種の隔絶ともいうべきものが横たわっている気がする。
九号館の九〇五号室は、一階の一番奥にあった。
まだ昼前だというのにカーテンがぴっちりと閉めきられ、梅雨どきということもあってかなんとなく室内全体が澱んでいるような気がする。五十人は収容できそうなその教場には、十名ほどの学生が散らばって座っていた。
三列目に座っていた女子学生と目が合って、百々は反射的に後退りをする。
穴ぐらじみたまなこにとろりとした陶酔が蜂蜜のように滴り、ここではないどこかを見つめていた。
この眼差しには、覚えがある。
何度も、何度も何度も見た。幼い頃、あの、塗りたてのペンキのにおいのする『ひかりのいえ』の施設で。みんなが、母にそのような眼差しを向けていた。
「鳥居」
累の呼び声で我に返る。
彼の眼光は鋭かった。累もなにか異様な気配が立ちのぼっているのを感じているようで、彼の手が引き戻すように百々の肩口をきつく掴んだ。
そうされると、融けかけていた自身の輪郭が、今またはっきりと実像を結んだような気がした。
「クナド様同好会の皆さんですね」
累は、穏やかに口火を切った。
「今回は聴取にご協力いただき、ありがとうございます。あなた方の活動内容について教えていただけますか」
「私たちは、救いを求める人々にクナド様の存在を伝えんと活動をしています」
会の代表らしき男子学生が、敬虔な信徒の顔をして言った。
固定式の長テーブルがいくつも並んだ教場の最前列の端っこに座っており、この暑いのに長袖を着込んでいる。
「私たちは皆、クナド様によって救われました」
夢見るようでいながら、強い意志のこもった声だった。
「救われたとは?」
「クナド様は私たちの声をひとつひとつ聞いてくれました」
「ライムのアカウントのことですね」
累が確かめるように言う。
「ええ。そしてクナド様は、私たちを虐げていた奴らに、天罰を下してくださったんです」
「……天罰」
百々は、学生の言葉をささめくように繰り返す。
それは、『ひかりのいえ』で百合子も好んで使っていた言葉だった。
――これは天罰。これほどあなた方を苦しめた方たちに、裁きがくだらないのはおかしいもの。
神を気取るようになった百合子は、そう言って信者たちの嘆きを余さず引き受け、一方では慰めと慈愛を振り撒き、他方では血も凍るような惨劇を繰り返した。
百々の母はそのような、歪に膨張した怪物に成り果てた。
男子学生は、スマートフォンを操作して、百々たちに画面を示した。トリラーのアプリだ。どうやら迷惑動画配信者の炎上騒ぎに関するトレンドが表示されているようだった。いくつか並んだ投稿には画像が添付されていて、覆面を被った配信者の本名や顔写真、経歴、住所に至るまでが事細かに記されている。
「これは?」
累の声音は依然として静謐ですらあったが、百々はそこに怒気がゆらりと細く火を灯すのを見た気がした。
「こいつは私を高校でいじめていた主犯格です。こいつのせいで、私は一時は不登校になって、人生がめちゃくちゃになりかけました。何度か暴力沙汰にだってなったのに、教師は誰も助けてはくれなかった!」
「……そのとき被害届は?」
「学校ぐるみでなかったことにさせようとしていたのに、そんなもの出せるわけないじゃないですか。なんですか。あなたも私を責めるんですか」
「いえ、」
累はそう言って口ごもる。
累は、そのようにして見過ごされてしまった者の痛みを無視できない。
男子学生はそれを良いことに調子づいて、身体を折って声高に笑い始めた。
「あいつ、こんな社会の
哄笑が、教場に木霊する。
攻撃的でありながら、今にも粉々に砕け散ってしまいそうな声だった。
「ですが、これは犯罪です」
「それが? 奴のいじめは散々見逃してなかったことにしておいて、こっちはこいつがクズ野郎だったって真実を知らしめることすら赦されないんですか!?」
累は、テーブルの上に置かれた男子学生の手の甲を見つめた。
袖口から覗いた皮膚には、おそらく根性焼きの痕であろう痛々しい火傷の痕があった。
累は男子学生のすぐ目の前までつかつかと歩み寄ると、テーブルに手を掛けた。間近で、男子学生の爛々と異様に輝く眸を見つめ返す。
「あんたには、そいつを憎む権利がある」
まさか警察官にそんなことを言われるとは思わなかったのか、男子学生は瞠目した。
「泣き寝入りしろとは言わない。もし警察に――警察じゃなくて俺でもいい。なにか言いたいことがあるなら、連絡してこい。話ならいくらでも聞いてやる」
累はそう言って、テーブルの横に回り込んで膝をつくと、男子学生の手にみずからの名刺を握らせた。狼狽える学生の眸にまっすぐに自分のそれを合わせて、累は繰り返す。
「だが、これは犯罪だ。どれだけクナドとやらに加担しているかは知らないが、あんただって罪に問われかねない。こいつを炎上させるだけさせて、あんたは前科一犯になって、それで満足なのか? 俺は、そんなやつにこの先のあんたの人生まで奪わせたくねぇな」
累は幾ばくか眼差しをやわらげて、男子学生を見つめる。
皮肉屋で悪態をついてばかりのくせに、累はいつだって全身全霊でひとに向き合う。
男子学生の眸が揺らいだ。きっと、今この瞬間この学生に真っ向から向き合った大人がいたことは、この学生がこれからを生きていく力になる。
「それにこの動画配信者、本当にあんたを苦しめたクソ野郎か?」
「え?」
「写真のやつと動画に出てくる覆面男の体格が違う。それにこの配信者の動画、写り込んでいる背景を見るに、拠点はおそらく関西だ。あんたを苦しめたクソッタレは今、そっちの方に住んでるのか?」
その言葉に、男子学生は色を失ってしまう。
デマやフェイクニュースでも構わないから相手が苦しめばいいという思考回路ではないだけ、この青年はまっとうだった。
百々は一歩踏みだし、ざわめく学生たちを見渡した。
「人の信仰は自由です。それによってのみ生きのびられる人もいる。それは、他人が土足で踏み荒らして奪っていいものではありません。あなた方がこのクナド様によって救われたことは、誰にも否定できない」
百々はつとめて静かに、感情の色をこめずに続ける。
「でも、SNSやライムを駆使するこのクナド様という存在は、カミではなく人です。人間は、魔法使いにも神にもなりえません。いずれその歪さに耐えきれずに、信仰する側、される側、或いは両方が壊れる。それを、忘れないで」
教場に、沈黙が幕を下ろす。
その後の聴取でクナド様の悪行がいくつか明らかになったが、誰ひとり直接その姿を見た者はなく、結局その正体については分からずじまいだった。
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