第13話 隠し神のなさけ

 伊予ヶ岳は、標高三三六メートルの関東百名山として知られる山だ。低山ながら、頂上付近には岳人を威圧するような岩峰が聳え、なるほど天狗伝説も生まれるのもさもありなんと思わせるような貫禄で周囲の田園地帯を見下ろしている。

 中天にかかった日がおぼろげに覗く薄曇りの空の下には、じめっとした大気が重たくのしかかっている。

 日のひかりを飴にして絡めたみたいな田んぼの緑が、連日の雨にも満足せずに空が泣きだすのを待ちわびていた。


「で、これはなんなんだよ」


 不可解そうに、累が百々を見やる。

 累の手には、片手に太鼓、片手に撥が握られ、後ろを歩く柊成もお祭りで見るようなかねをぶら下げていた。


 結局百々は法村に関して累になにも言葉を掛けられないまま、伊予ヶ岳の山麓に社を構える平群天へぐりてん神社の奥の登山口くんだりまで来てしまった。

 累はすっかりいつも通りで、余計に法村の件で話しかけるのを拒絶されているような気がする。


 とはいえ、今はなにより行方不明の柳成の捜索に集中しなければならない。百々も頭を切り替えて累を振り返った。


「今回は、神隠しの捜索のお作法にのっとった方がいい気がしたので」

「神隠しの捜索の作法?」

「現実的な言い方をすれば失踪者に大きな音を出して知らせるための合図です。伝統的な失踪者の捜索法ですが、鉦太鼓の音は、隠し神をぶとも、この世と異界をつなぐとも言われます」


 累はまたよく分かんねえこと言ってんな、とこぼしつつも調子外れの音を鳴らしはじめる。

 柊成も生真面目な顔をして、それに続いた。早苗が途切れることなく柳成の名を呼ぶ。それに背中を押されるように、桐吾の声が梢のトンネルの先へと渡って行った。


 今を盛りと濡れにおう緑の濃い香りと、肺腑の底へ沈み込むような湿った土のにおいが充ちみちている。こんなときでもなければ深呼吸でもして、のんびりと草花でも眺めたくなるような情景だ。

 とはいえ、スニーカーが泥だらけで、スラックスにも斑模様ができてしまったのにはほとほと困ってしまった。

 学生時代は登山が趣味だったらしい累が百々の格好を見て、山舐めんなと言った意味が、今さら理解できてきた。


「消えかけているが足跡がある」


 累が登山コースから外れた泥濘に痕跡を見つけたのは、折り返し地点に辿りついたあたりだった。


「お父さんとお母さんはここで待ってて。私が境木さんたちと一緒に行ってきます」


 息を上げている両親に柊成はそう言って、疲れも見せずに倒木を踏み越える。累が振り返って百々にグローブを投げてきた。


「こっからは手も使え。それしてな」


 命令形なのが腹が立つが、あいにく百々は根っからのインドアで門外漢なので、累に従う。

 傾斜のきつい獣道をしばらく進んだ先に、巨樹が見えてきた。なんの木かは百々には分からなかったが、老木なのか樹皮がコルク質になってくっきりと盛り上がっている。

 その木の根元に人影があった。足を投げだして木に寄りかかっている。


「柳成!」


 柊成は叫んで、弟のすぐ横に膝をついた。

 柳成は返事をしない。

 今にも泣きだしそうな柊成の代わりに、累が頸動脈に指を当てた。


「脈は正常。少し衰弱はしていますが、命に別条があるようには見えません。医者に診せないとなんとも言えませんが、寝ているだけでしょう」


 その言葉に柊成は力が抜けてしまったように頽れる。柳成の肩に、秀でた額が凭れて微かにふるえた。

 累は柳成のポケットの中からサゴマイザーの錠剤を探り当てると、立ち上がって周囲の様子を見回した。


「弁当ガラとペットボトルがいくつか。シッポもやってるっちゃやってるが」

「まだいくつか持っていたわりに、使用量が少ないですね」


 百々も頷きながら弁当ガラの食べかすに目を落とす。米が干からびていないので、ほんの最近食べたばかりのようだった。


「家族に相談しようとしていたということは、使用に迷いもあったはずだ。まだ死ぬに死ねない、手放せないもんがあったんだろ。そういう奴は、生きていける」


 まるで祈りめいた、しかし強い確信を宿した言葉だった。

 累はもう一度跪いて、柳成を負ぶおうとする。

 そのとき、柳成の身体が小さく身じろぎした。泥の飛び散った柳成の瞼が何度かむずかるように顰められて、やがてぼんやりと視線が彷徨う。

 兄ちゃん、と夢見心地のあどけない子どものような声が柊成を呼んだ。

 だがすぐに柳成は目を見開いて表情を険しくする。


「なんで兄貴が――そいつらサツか!」


 柳成は取り乱した様子で、巨木を支えに後退りする。累が動こうとするのを、柊成が片手を上げて制した。


「柳成、大丈夫だから帰ろう」

「帰る場所なんて――」


 つり目がちな眸が、きりきりと引き絞られる。柳成はさらに距離を取ろうとしたが、その手を柊成が掴んだ。


「柳成、全部大丈夫だよ。だから帰ろう」

「なにが大丈夫だよ。サツがいるなら、知ってんだろ。俺はシッポをやった。もう取り返しがつかねぇ! 俺に関わったら兄貴の人生まで台無しだ」


 凶暴な剥きだしの笑みを浮かべて、柳成はまだ持っていたらしいサゴマイザーを柊成に叩きつける。

 柊成は静かに柳成を見つめた。風のない日の湖面のような眸は、全ての覚悟を決めているように見えた。


「これからもおれは、おまえに関わっていきたいよ」

「意味わっかんねえよ。頭イカれたのか?」


 柳成はそう吐き捨てて、柊成の拘束を振りほどこうとする。兄よりも弟の方が体格がよかったが、柊成は柳成に喰らいついた。


「おれはね、おまえみたいになりたかったんだよ、柳成」

「は? 喧嘩売ってんのか」


 柳成は、荒々しい顔つきで凄んだ。


「ずっとおまえが眩しかった。やさしくてまっすぐで真剣で。おれはなんで弁護士になるかなんて考えたこともなくて、ただ敷かれたレールを走ってただけなのに、おまえは当然のように自分の考えを持って、自分以外の誰かのことを考えていたから」

「そんなの、なんの足しにもならなかった!」


 柳成が吼える。

 柳成の立場にしてみれば、彼が死に物狂いで目指した場所に何不自由なく立っているかに見える兄の言葉は、受け入れがたいものに聞こえるだろう。


「おまえは、たしかに不器用だ。でもそれは、おまえがとくべつやさしくて、おれが簡単に切り捨てた見えないもののことまで考えてぐるぐる悩んでいるからだって、おれは知ってる。きっとこの先、そんなおまえを必要とするひとはおれ以外にも沢山出てくる。おれはそう、信じてる」


 まだ柳成は柊成を睨みつけている。けれどもその充血した目に透明な膜がはるのを百々は見た。

 柊成の言葉に込められた思いをこの場で誰よりも理解しているのは、柳成にちがいなかった。


「黙っているのはフェアじゃないから、正直に言う。卑怯なおれは一度、おまえを切り捨てようとした。だけどやっぱり、どうしたってあの八幡の藪知らずを思いだして思うんだ。これからも、おまえと家族でいたい」


 立ち尽くして唇を噛みしめている柳成の頭を引き寄せて、柊成は仄笑う。

 くしゃりと、柳成の表情が歪んだ。


「もう一回、一緒に歩いていこう。大丈夫、おまえはおまえが思っているより、すごいやつだよ」


 柊成の囁きに、柳成の嗚咽が融け合う。あとはただ、柊成が規則正しく弟の背を叩く音だけが聴こえた。


 柳成は初犯だ。おそらく執行猶予付きの判決が下るだろう。だが、サゴマイザーをやめるためには、量刑がなんであれ回復施設や自助グループに入るなどして薬物を断ち続けなければならない。それは途方もなく、果てしない道のりだろう。

 けれどきっと、と百々は祈るように思う。

 百々はふたりの兄弟を見つめながら、手短に八森への報告を済ませた累の隣に並んでそっと口を開いた。


「神隠しは、自殺や誘拐、そういった不幸な真実を覆い隠すためだけでなく、望まぬ結婚や、共同体からの逃避に対する一種のセーフティネットとしての機能も持っていました」

「セーフティネット?」

「たとえば、青年が村の生活が嫌で逃げたとします。鉦や太鼓で探し回るが見つからない。けれど数カ月が経ってひょっこり村に戻ってきた。それは現代であれば、仕事や家庭からの逃避だとして非難されることもありますが、かつては神隠しと名をつけられることで、神様に取り隠されたのだから仕方ないとして、詮索されたり取り調べられたりせずに社会に復帰することができたんです」


 もっとも、神隠しは歴史上、人買いや殺し、口減らしなどの陰惨な現実をも、甘い幻想で包み込んでしまった弊害もある。

 現代において、そうした罪人の姿をくらませてしまう性質をもった神隠しを礼賛するのは、被害者たちの存在をなかったことにしてしまう暴力性も孕んでいる。


「柳成さんの薬物使用を不問にしろ、と言いたいわけではありません。薬物使用に限らず、罪を犯した人は法に基づいて裁かれるべきで、私たちは裁く立場にも赦す立場にもない」


 柳成も立川一家も、おそらくこの先名も知らぬ誰かから後ろ指を指される日々を送るだろう。犯罪者の旗標があれば、何をしてもいいというような風潮が罷り通る世の中だ。

 先の明星の事件でネット上で糾弾された鷲津の遺族は、元々暮らしていた家を出たらしい。百々も鷲津のことは毛嫌いしていたし、彼の宮野に対する仕打ちには重い刑罰が下ってほしいと思っていた。だからといって彼があのように不当に命を奪われ、遺族が苦しんでいることで溜飲を下げたいとは思わない。


「今や神隠しなんて不確かなものは現代から消えてしまいました。ですが、かつて神隠しが持っていた、そういう――おかえりと言える余地は、この先もあってもいいんじゃないでしょうか」


 罪を憎み、赦さないこと。罪を犯した人が刑を終えて生きていくこと。それに寄り添うこと。それらは並立しうるものだと信じていたいと百々は思う。


 累が慕う法村の罪は重い。人ひとりを手にかけてしまった。

 それは累の言葉を借りれば、一生涯赦されるものではないだろう。累はそれをよく知っているからこそ、道の途上で道しるべを失くして途方に暮れてしまった。

 けれど、累がもし、刑を終えた法村におかえりと言える未来を冀うのならば、百々はそれを批難したいとは思わない。

 直接はとてもそんなことは言えなかったので、隠し神のもつひとひらの情にただ祈りを託す。


 それまで兄弟に視線を向けながら黙って百々の話に耳を傾けていた累が、不意に口を開いた。


「おまえ、なんでサイキックハンターなんて似合わねぇことやってんの」


 その眼差しが思いがけずやわらかな色を兆していて、少し戸惑う。


「なんでって……どういう意味ですか」

「いかさまやインチキや御伽噺の真相を暴露して、高笑いしてるようには見えねぇってこと」

「サイキックハンターのイメージが偏りすぎですよ」


 百々は憤慨して言ったが、累はますますやわく微笑うばかりで調子がくるう。


「やさしいやつだなって思っただけ」

「は……? な――」


 それきり、百々は二の句を告げなくなる。

 耳たぶが熱を持った気がして、慌てて耳に掛けていた髪を乱した。

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