第10話 累の過去―組対第四課時代―
東京には、珍しい雪が降っていた。
累の故郷の旭川に降りつもる柔らかな真白の雪花とはちがう、じっとりと重い雪だ。雲は低く垂れ込め、排気ガスと人いきれのにおいで押し込められていくような心地がする。
何度東京の冬を越えても、あの故郷の凍てついた何者をも拒絶するかのような絶対的な冬が恋しくなる。
けれど今や、故郷に累の家はない。
父が病で他界し、後を追うように母が療養施設に入って数年。
すぐさま茶色く濁って爪先を濡らす濡れ雪のそぼ降る東京が、累の生活の拠点だ。
季節外れの異動の辞令を抱えて独身寮を後にし、鼻先と頬を赤く染めた人々でひしめき合う有楽町線に乗り込む。
辿りついた警視庁の庁舎で待っていたのは、およそマル暴の刑事らしくない、小柄で物腰柔らかなベテランデカだった。
「法村です。君が境木くんかな。よろしく頼むよ」
累が第五課時代に“失敗”した噂を知らないはずもないのに、法村は目元に笑い皺をつくって嘘も蔑みもない笑みを向けてきた。
取り立てて特徴のない平凡な容貌の中年男なのに、何故だかその笑みに見入ってしまったのを覚えている。
とはいえその頃無気力にただかろうじて息をしていた累には、新しい相棒が誰であろうがどうでもよいことで、ただその名前が頭の片隅を行き過ぎただけだった。
組対はその性質上、他の部署よりも危険に晒されやすく、法村とともに死線をくぐり抜けたことも一度や二度ではなかった。
法村は、思いがけず優秀な男で、経験の浅い累は何度も相棒に命を救われた。拳銃を向けられた法村が無表情に相手を見返していたときは肝が冷えた。そのときは殺人は犯したことのなかったヤクザ者の方が怖気づいて拳銃を手放し、あえなくお縄となった。
他の捜査員たちがヤクザ顔負けの怒声を上げて暴力団を取り締まるなか、法村は普段と変わらない穏やかな様子で颯爽と現場を横切り、締めるところは締めつつも更生の道を示した。そんな彼のやり方は暴力団関係者のなかでも知られており、時折足抜けしたい暴力団員が彼を指名して相談に来るほどだった。
張り込み中、暇を持て余して法村に戯れを口にしたことがある。
「人たらしって、本当にいるんですね。犯罪者もあなたの虜だ」
運転席のハンドルにぺたりと腕をつけて、組んだ手に顎を乗せた態勢で、累は助手席の法村を見やった。
「人聞きが悪いな」
苦笑を貼りつけた法村は、コンビニで買ってきたばかりの肉まんを二つに割って、片方を累に差し出す。細く湯気が立ちのぼって、腹の虫を恋しがらせるいいにおいがした。
そういうところを指して言っているつもりなのだが、法村にはまるで自覚がないらしかった。
「境木くんは、警察官と犯罪者を隔てるものはなんだと思う?」
唐突な法村のその問いに、累は返す言葉を持たなかった。
犬飼の一件がある前の累であれば、犯罪者と正義の体現者たる警察官を一緒にするなと憤っていたかもしれない。けれど、その時の累にはもう、とてもその境界なんて見出せなかった。
「私はね、そのふたつを隔てるものなんて本当はなにもないんじゃないかと思う」
だからその法村の言葉を聞いたとき、累は思わず彼を食い入るように見つめてしまった。
垂れた瞼に埋もれた黒いまなこは、ただ静かに凪いでいた。
「だからこそ、一対一の人間として真正面から相対する。溺れて喘いでいる人間がいたなら、手を差し伸べる。私はね、人は再生できると信じていたいんだよ」
「信じるだけでは、正しくなんか生きられません」
絞りだした声に、法村は円く笑った。
晩秋に降りだす故郷の泡雪めいた、ささやかな笑みだった。
「うん、そうだね。正義なんて曖昧で不確かで流動的なものだ。あるのは規範たる法だけ。私たちはその手足となって、出来るかぎり色眼鏡をかけずに目の前の人や事件を見つめることしかできない」
法村は春一番が吹く街の雑踏を眺めながら、ひそやかに言った。
法村の言葉は、累が進む道の一歩先を照らしだしてくれる灯火のようだった。
「だから私は私に何度でも問い続けるんだ。法を犯していないか、倫理を打ち棄てていないか、なにか目に見えないものを踏みにじっていないか。畢竟、私たちはきっとそうして泥臭く、正しさらしきなにものかにしがみついていくしか道はないんじゃないかな」
呆けたように法村の横顔を見つめていたら、不意にその眸がこちらを仰向いた。
惚れなおした? 境木くんも私のことヤーさんってあだ名で呼んでもいいんだよ。
そんな軽口を言って、法村は悪戯っぽく目尻をすぼめる。
「惚れてませんし、呼びません。俺をあんたにかぶれたそこらへんの有象無象と一緒にしないでください」
溜め息をついて明後日の方を向けば、左肩を強い力で掴まれ引き戻される。
間近でかち合ったその眼差しが法村のものとも思えない鋭利な刃物じみていたので、累は思わず呼吸の仕方を暫し忘れた。
そのとき累の内ポケットには旭川行きの片道の航空券が入っていて、もう二度とこの異郷には戻ってこないつもりだった。いや正確に言えば、もうどこにも帰る場所などないので、せめてあの懐かしい、大雪山の万年雪の真白に跡形もなく埋もれてしまおうと思っていた。
だが累はどうやら、叩き上げのベテランデカの嗅覚を侮っていたようだった。
「たしかに君は、取り返しのつかないことをした」
もはや法村の言葉に容赦はなかった。
「でもね、君が壊してしまったひとりの人間の人生がこの先も続くように、君の人生も続く」
「――俺の人生?」
自分のものとも思えない声が車内に影を落とす。それは、粘ついてへどろの底じみていた。
「誰かに赦されなければ生きられないというのなら、私が赦す」
「――あんたは何様なんですか。赦されたいなんて、思ったことはありません」
引き攣れた唸り声を上げて、累は法村を睨めつける。
怒りとそれからわけの分からない混濁した感情のせいで視界が潤み、熱を出したように身体が火照っていた。
法村は軽やかに笑った。しずり雪を融かす、四月のやわい春日影みたいだと思った。
「相棒だよ。君が転んだときは、私が助け起こす」
「そんなの――」
望んじゃいない、という言葉は結局形にはならなかった。
たった数年を共にするだけの後輩のことなど放っておけばいい。なのにずけずけと累の内側に踏み込んでくるその人が、今この一瞬他の何を置いても境木累というひとりの人間の人生に関わってくれているのが分かったから、その手を振り払うことなどできなかった。
「もし、君が自分のために生きられないというのなら、暫くは私のために生きなさい。カップラーメンでもいいから、毎日ちゃんと三食食べて、部屋を綺麗にして、そうやって生活を営みなさい。それもできないくらいに疲れたときは、私の家にご飯を食べにおいで。世界一素晴らしい私の奥さんと、世界一かわいい私の娘も君に会いたいって。あ、娘はかわいいけど、ちょっかいをかけたりしたら――」
「しませんよ。そんな怖いこと」
累は邪険に言ったつもりだったが、目尻からなにか滴のようなものがぽろりとこぼれ落ちたので、様にはならなかった。
思わず運転席のハンドルに突っ伏した累の意を汲んで、法村は窓の外を見やる。「なら、いいよ」と嘯く声は、春に浮かれる街行く人々の誰より、弾んで聴こえた。
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