第9話 累の過去―組対第五課時代―
「どういうことですか? ちゃんと説明していただけないと――ああクソ、切りやがった」
捜査車両の狭い空間に盛大な舌打ちが響く。半ば投げ捨てる勢いで累がスマートフォンを置くのを、百々は眉を顰めて見やった。
柳成の薬物使用疑惑が浮上した翌日、百々は累とともに本八幡駅及び菅野駅周辺の防犯カメラの映像の洗い直しと駅周辺の聞き込みを行っていた。もう市川北署が一度行っている捜査ではあったが、他に手がかりもないので基本に立ち戻るほかなかった。
早朝に東京を出てきたので、今は本八幡駅近くのハンバーガー店の駐車場に車を停めて、遅い朝食を摂っている。
「立川家に今日の十一時から入れてた事情聴取、なくなった」
「日を改めるのではなく?」
「もういいです、だとさ。なんで――ああ、シッポの件が町田南署から連絡が行ったのか」
累はひとり勝手に納得しているが、百々には訳が分からない。
「議員に弁護士だろ。ジャンキーが肉親にいるなんて噂が広まったら、仕事に支障が出る」
「そんな――柳成さんはもう一週間も行方が知れないんですよ。今ならまだ、間に合うかもしれないのに」
語尾が、情けなく擦れる。百々は頭を振って、目を伏せた。
「なんて、境木さんに八つ当たりしても仕方ないですね」
「……追い返されるかもしれねえが、行くだけ行ってみるか。父と兄はともかく、母親の協力を得られる見込みはありそうだ」
そう言って、累はエンジンをかけると、左にハンドルを切る。
国道十四号線を西に向かってすぐ、八幡の藪知らずが見えてきた。何気なく不知森神社に目をやって、百々は目を見開く。
「境木さん! 車停めてください」
「は?」
「柊成さんです。柊成さんが、不知森神社にいました」
歩道脇に空き地を見つけて、累がそこに車を突っ込む。すぐ傍の蕎麦屋の主人に事情を説明して車を置かせてもらい、百々は累とともに不知森神社に取って返した。
そこに姿勢のいい痩せた背中を認めて、百々はこくりと唾を飲み込む。ほとんど雨は降っていなかったが、笹から滴り落ちる水滴のせいで、彼のスーツにはいくつもの染みができていた。
柊成は百々たちの気配に気づくと、ゆっくりと振り返って顔を強張らせた。
「帰ってください。父が聴取をお断りしたはずですよね」
「それで、はいそうですかと引き下がるタマじゃないんでね。柊成さんはなぜここへ?」
累の詰問に、柊成は唇を引き結ぶ。自らの腕を掴んで俯く表情からは、怯えが伺えた。
柊成は弁護士となってまだ二年足らずだ。家族に悪評が立てば、勤務している法律事務所を解雇になるかもしれない。そうした柊成の懸念は理解できるものだ。
しかし、その怯えの一端に、わずかにこちらに縋るような光が過ぎる。
そもそも柳成のことがどうでもよかったならば、わざわざ休日にこんな場所まで足を運んだりしないだろう。
「柊成さん。お話したいことがあります。ご両親にも」
累が切り込めば、柊成は一度こちらに背を向けて、祠の前で深く頭を垂れる。
それから百々たちに向きなおると、柊成はゆるゆると視線を上げた。
「……分かりました。うちに行きましょう」
*
柊成の案内で辿りついた凌霄花の群れ咲く一軒家は、つめたく百々たちを出迎えた。
「いくら警察といえど、横暴ではないか」
百々たちは昨日と同じリビングに通された。怒鳴り散らすのではなく、冷静な桐吾の声がちくりと胸を刺す。その点については、桐吾の言うことに一理あった。
「申し訳ありません」
累は反駁もせずに、深く頭を垂れる。
百々もそれに倣えば、桐吾は小さく溜め息をついた。
「柳成さんの行きそうな場所に心当たりはありませんか。交友関係も当たりましたが、全く手がかりがなくて」
「知らん。だいたい、町田南署の連中には引き続き捜査協力をしている。あんたらまで引っ張りだすことでもなかろう」
百々の問いに、不愉快そうに桐吾はそう吐き捨てる。累は、首を傾けて桐吾を仰いだ。
「このまま見つからないほうが、あんたの経歴に傷がつかないもんな?」
「なに?」
挑発するような物言いに、凍てついた怒気が矢のように累を射抜く。
「息子がラリって失踪して逮捕されたなんてことになったら、あんたの評判はがた落ちだ」
「……君は、私を侮辱しにきたのかね?」
「そんな嫌がらせに来るほど暇じゃありませんよ」
桐吾は眉を顰めて、累を見やった。
「柳成は、大学ひとつまともに卒業できずに、薬物なんてものに手を出した。柳成ひとりと、我々三人の生活を天秤に掛ければ、どちらを守るべきかは明白だ。大事にはせずに、家族を守ろうとするのがそれほど卑劣に見えるかね」
芸能人の薬物報道を皮切りに、日本では薬物依存症への偏見が根強い。
桐吾が柳成を切り捨てるような真似をしたのも、我が身かわいさだけではないだろう。もう一人の息子や妻、家庭を守ろうという思いがあるはずだ。
「いいえ。ただ、もしまだ柳成さんに関わろうという思いが少しでもあるのなら」
そう言って、累はちらりと部屋の隅で祈るように手を組んでいる早苗と、こちらの話に耳を傾け続ける柊成を見つめる。
「俺の話を聞いていただけますか」
累はぽつりぽつりと語りはじめる。
それはまだ、累が組織犯罪対策部に配属されて間もない頃――第四課でのマル暴時代よりもさらに昔、刑事になりたてで第五課で薬物捜査を行っていた頃のことだったという。
当時、第五課薬物捜査第三係は、渋谷のクラブで若者に覚せい剤を売りさばいている売人が暴力団と関係があることを突き止め、売人の捜索に明け暮れていた。その中で捜査線上に浮上したのが、覚せい剤取締法違反により逮捕歴のある犬飼という男だったという。
他には大手の旅行代理店に務めるサラリーマンなども容疑者として挙がっていたが、警察の捜査が始まったことを察したのか売人はすっかり影を潜めてしまい、捜査が行き詰まっていたのだそうだ。
まだ若く血気盛んだった累は、当時の相棒とともに出所後土木作業員として働く犬飼を執拗に追い回し、彼が売人である証拠探しを始めたのだという。
「蓋を開けてみれば、結局売人は大手旅行代理店勤務のサラリーマンでした」
犬飼は出所後薬物依存症の回復施設に通い、ついに就職に漕ぎつけることができた、まっとうに生きなおすことを決めた男だったという。
しかし、累らによる職場や自宅周辺への張り込みなどでまた薬物に手を出しているのではないかと疑われ、職を失ってしまった。
「追いつめられた犬飼は、また薬物に手を出してしまいました」
捜査の過程で、累たちは何度も薬物の写真を犬飼に突きつけ、お前が売ったんだろうと迫ったのだという。
薬物依存の回復の中途にある者にとって、注射器や薬物の写った写真を見せられることは、心の奥底にしまい込んだはずの欲求を呼び覚ます契機になってしまうのだそうだ。
「犬飼が濡れ衣だったと分かり、相棒は捜査のためだったのだから仕方がないと言って正当性を主張しましたが、俺にはそうは思えなかった。逮捕歴だけ見て、ヤク中の意志の弱いダメ人間だと決めつけて、無実の訴えも取り合わずに彼の人生を踏みにじったんです」
その後、累はリハビリセンターへの通所の足しになればとなけなしの金を封筒に詰めて、謝罪のために犬飼に会いに行ったが、今後一切関わらないでほしいと突っぱねられたのだそうだ。面会に来ていた彼の家族は、こんなもので息子の人生は帰ってこないと肩を震わせたという。犬飼の人生への関与を禁じられた累は、彼が今どうしているか、幸福なのか不幸なのか、今生きているのか、なにひとつ分からないと茫漠とした声で言った。
累は結局、受けとり手をなくしたその二百万円を薬物依存の回復施設や自助グループに全額寄付したのだという。今でも毎年、施設に少額の寄付を続けているそうだ。
「そんなことで、俺のしたことは消えません。人ひとりの人生を粉々に砕いてしまった。一生涯をかけても、償えない」
それからずっと、累は刑事を辞めるか続けるか悩んだそうだ。
食事も喉を通らなくなり、部屋も散らかって酷い状態になったという。それは一時期の百々や、柳成の部屋の様子を思い起こさせた。百々も梅雨の時期はいまだに部屋が荒れる。
そうしてもうどこかへ消えてしまおうかという思いが頭を横切り、どうしようもなくなったとき。
「そんなときです。俺がヤーさん――法村弥一さんと出逢ったのは」
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