第8話 進展
町田駅から約二十分。柳成の住む「メゾン・ド・エリカ町田」のアパートに百々は累とともに向かっていた。
「青ばら」を出て、累は百々に大事をとって帰宅するよう促したが、彼ひとりで行かせて、前に宮野の家を訪れたときのようなアクシデントが起こったら困る。それに「青ばら」を出てから累はどこか口数が少なく、返事も上の空なのも気にかかった。
もっとも、荒々しい逮捕劇などになったら端から百々など無用の長物なのだが。
束の間の晴れ間が覗き、西に見える団地の向こうでは雲の帯が茜色に染まっている。俄かに吹いてきた天狗風に髪が巻き上がって、百々は横髪を押さえつけた。
道路の向かいの小さな公園では、かくれんぼをしている子どもの姿が見えた。もう十七時半の鐘は鳴ってしばらく経つのだが、子どもたちは気づいているのかいないのかいまだ物陰に隠れて出てこない。鬼役の子はなかなか隠れている子たちを見つけられない様子で、あっちに行ったりこっちに行ったりを繰りかえしていた。
長く伸びた影を踏みながら、累はちらりとそちらを見やる。それだけでは飽き足らず、三歩ほど歩いたかと思ったらまたそちらのほうを見つめて、今度は腕時計の時刻を確認して舌打ちをした。
東京の治安は残念ながらお世辞にも良いとは言えない。現代では隠し神に取り隠されるよりも、誘拐や殺人による失踪が大勢を占めていた。
「神隠しの法則について知っていますか?」
「なんだそれ」
白いバンがすぐ横を通りすぎる。それを走りだす前の猟犬のような目をして見送りながら、累が大して興味もなさそうに相槌を打つ。
「諸説ありますが、神隠しに遭いやすい要素を抜き出すと次のようになります。たそがれ時、かくれんぼをしている最中、子ども、風の強い日」
百々が指折り数えた意味に、累はすぐさま気がついたらしい。
累は顔を顰めてから、百々を軽く睨みつける。
「前々から思っていたが、お前、時々感じ悪いな」
「いつまで経っても人をお前呼ばわりするひととは五十歩百歩でしょう。いってらっしゃい」
ひらりと手を振れば、累は物言いたげに目を眇めつつ、道路を渡った。
突然出現した目つきの悪い大男に、子どもたちは「ふしんしゃだ!」と指をさしている。
こうなるかもしれないと思っていたからこそ、累はなかなか声を掛けには行けなかったのだろう。日が暮れても帰ろうとしない子どもを心配して、始終やきもきしていたくせに。
しかし、心配しなくても、現代の子どもたちはなかなか逞しかったらしい。防犯ブザーを片手に累の横を通りすぎて、彼らは夕飯のにおいの漂いはじめた住宅街へと吸い込まれていく。
戻ってきた累はどっと疲れた顔をしていた。
「おまわりさんは大変ですね」
「その片棒を担いでる分際でなに言ってんだ」
「片棒って……悪役ですか」
他愛もない会話をしながら、空の色を映して橙色に染まった道を辿る。
間もなく、古びた小さなアパートが見えてきた。築三十年は下らないだろう。錆びた鉄骨階段の脇にはシルバーのセダンが停まっている。
「……警察車両だな」
目ざとく累がそう判別して、柳成の部屋のある二階に向かおうとする。
しかしその前に強面の男たちが階段を降りてきた。ひとりは五分刈りで色付きのサングラスを掛けており、もうひとりはクロコダイル柄にスタッズのついた革靴を履いている。
「おう、境木じゃねえか」
「ご無沙汰しています」
累はよそ行きの顔をして頭を下げた。
累の知り合いということは、町田南署の組織犯罪対策課の刑事だろうか。このやりとりがなければ、絶対にその筋の人だと勘違いしていた。
「立川絡みですか」
「……なんだ、お前もか」
驚いた様子で、町田南署の刑事が累を見やる。どうも、この様子では彼らは柳成の失踪を知らないらしい。
「いやな、二週間前ヤクの売人をパクったんだが、どうもシッポも売ってたみたいでな」
シッポとは、若者を中心に近年多く出回っている違法薬物の俗称だ。
たしかサゴマイザーが正式名称で、カラフルな三角形のお菓子のような形状をしている、サイケデリック系ドラッグの一種である。
最近、芸能界でも西東佑馬の共演俳優がサゴマイザーの常用者だったために逮捕されたばかりだ。
「シッポを買ってた奴らを芋づる式に吊り上げていたら、さっき近くに住んでる若いのからこのアパートに住んでる奴もやってたって聞いてな。任意で話を聞きにきたところだ。そっちは?」
「立川は一週間ほど前から行方不明ですよ。失踪事件として動いています」
町田南署の刑事がなんだって、と言って顔を見合わせる。そのまま二人は足早にセダンに近づき、なにやら無線で連絡を取り始めた。
累はそれを横目に事前に大家から借り受けていた合鍵で柳成の部屋に入る。
事前に令状は取ってあるので、違法捜査ではない。
「……柳成さんは、サゴマイザーを使っていた?」
「可能性は出てきたな」
百々に予備の靴カバーと手袋を投げて寄越すと、累は1Kの部屋を片っ端から虱潰しに探し始めた。捜索願が出てからすでに部屋の中はある程度調べられているはずなので、そのときにはサゴマイザーは出てこなかったのだろう。
部屋の中は雑然としていて、お世辞にも片付いているとは言えない。床も埃っぽくべたべたしている。生ゴミも一週間以上前から捨てていないのか、なにかの腐ったようなにおいが鼻をついた。
累は全部の棚を調べ終えると、布団を引っぺがしたり、ゴミ箱をひっくり返したりし始める。それから累はベッド下におさめられていたプラスチック製の収納を全て取り出して、中を確認する。それでもなにも見つからなかったらしく、今度はジャケットを脱いで腕まくりをすると、床に這いつくばった。ベッド下にできた隙間に手を入れる。
「ライト」
こちらを振り向きもせずに左手を向けられ、百々は鼻白みつつも渋々携帯用の懐中電灯のスイッチを入れて累に手渡す。
累はしばらく灯りを照らしつつ手探りでベッド下をまさぐっていたが、やがてなにかを右の手の指で摘まんで上体を起こした。
「ビンゴだ」
累が開いた手の上には、ショッキングピンクの三角形のお菓子のようなものが乗っかっていた。
「それが……?」
「シッポだ。組対にいたころ、腐るほど見たから間違いねえよ」
言って、累は小さなポリ袋にそれをしまう。
「これだけ散らかった部屋で、シッポがこの落とした一錠しか見つからねえってことは、意図的に持ち去った可能性が高ぇな」
「つまり、事件や事故でなくて、自ら姿を消した?」
「売人が事前に捕まっている。捜査の手が後々自分にまで及んでいくと踏んで、証拠を捨てた、あるいは持ってどっかにとんずらしたってのはありうる。シッポなら毛髪検査すりゃ数カ月は陽性反応が出るからな」
「……証拠隠滅のための、神隠しの狂言?」
そう口では言いつつも、なんとなく納得できない気持ちが横たわっている。
百々は再度、部屋を見渡した。
洋室の窓辺には、本棚が三つも並んでいた。この狭い部屋には不似合いなほど、大きなウェイトを占めている。そこには、収まりきらないほどの書物がぎっしりと詰まっていた。
「六法全書、刑法、民法……そういえば、柳成さんは早穂大の法学部でしたね。お兄さんと同じ、弁護士志望だったんでしょうか」
「兄弟だけじゃねえ。父親も、弁護士から市議に転身した身だ。そんで去年の秋、柳成は法科大学院の試験に落ちてる。大学辞めちまったのはたぶん、そのせいだな」
百々の知らない間に累は桐吾や柳成の経歴まで調べていたらしい。それにしても、柳成は桐吾と不仲だったらしいのに、父親と同じ職業を志すとは、どのような心境だったのだろうか。
書物はしばらく触っていないのか埃を被ってこそいたが、夥しいほど貼られた付箋はどれもよれよれで熱心に学業に打ち込んでいたことが伺えた。
累は膿んだ傷に触れるようにそっと、一冊の本を開いた。
「真面目で、一所懸命な奴だったんだろうなあ」
その声が、思いのほか感傷の滲んだ
「隠滅じゃなく、ただどうしていいか分からず衝動的に逃げた――ってこともあるかもな。姿を消す前に実家を訪れているってことは、一度は薬物に手を出したことを家族に打ち明けようと思ったのかもしれない」
「ええ……ですが、実家では薬物使用を打ち明けるどころか、就職について問われて言うに言えなくなってしまったとすれば辻褄も合います」
「……思いつめてなけりゃいいが」
累は大きな身体を丸めて丁寧に本を元あった場所に戻す。
真剣に学業に打ち込み、本気で法曹を目指していたからこそ、その挫折は柳成を打ち砕いてしまったのかもしれない。そうしてなにもかもどうでもよくなって、日雇いバイトに明け暮れるなかで薬物に溺れてしまったのだとしたら。
なまじっか出来のいい家族の姿を傍で見て育ったゆえに、余計にもう取り返しがつかないと心を鎖してしまっても不思議はない。
心をとじて、とじて、とじていった先に辿りつくのはきっと皆ひとしく、つめたく淋しい空漠なのではないかと百々は思う。
その空漠から、百々は明星を掬い上げることができなかった。それどころか、百々のやり方はおそらく明星を余計に追いつめた。同じ轍はもう踏みたくない。
「もう一度、立川さん一家にコンタクトを取ってみましょう。なにか手がかりがあるかもしれません」
宮野の死に纏わる事件の記憶が脳裏を過ぎったのは、百々だけではなかったらしく、累は神妙な面持ちで頷いた。
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