第17話 モリミヤジン

「鳥居、入るな。八森さん、至急応援を。おそらく、C‐4爆弾。一キロ超はあります」


 背中越しに、累が短く百々を制止し、無線の向こうの八森に事態を簡潔に報告する。

 室内を見渡し、百々は正確に状況を理解した。

 すぐ後ろのホテルマンに、宿泊客の避難を始めるように指示し、百々はインカム越しに八森に状況を報告する。


『爆発物処理班をすぐに向かわせる。無茶すんなよ!』


 珍しく切羽詰まった八森の声に短く応え、百々は累の後に続いて部屋に足を踏み入れた。


「意外と有能なおまわりさんだったのね。……それ以上近寄ったら、今すぐ起爆スイッチを押すわ」


 累が鷲津まで二メートルの距離まで迫ったところで、明星が気だるげに微笑む。

 百々が累の隣に並ぶと、彼はほんの一瞬こちらを睥睨した。

 いくら相手が自称霊能者とはいえ、爆弾魔相手に百々ができることなどなにもない。そう言いたいのだろうが、累も丸腰である以上、百々とそう大差なかった。

 せめて二人いたほうがましだと百々が目で訴えれば、累はもうそれ以上は威圧してはこない。

 どうやら最悪中の最悪のシナリオを辿っているらしく、明星は鷲津による罪の自白などには一切の興味がないようだった。


「明星、詰みだ。今すぐ鷲津を解放しろ」

「生憎だけど、復讐は何も生まないだとか、涼音が浮かばれないだなんて御託を並べるつもりならお門違いよ。二人死ぬか、四人死ぬか。ただそれだけ」


 明星は、こんな異常事態に似つかわしくないいっそ透徹とした眼差しで答えた。

 訳の分からない迫力に飲まれそうになるが、累は大きく息を吸ってなおも口を開く。


「御託くらい並べさせろ、こっちは警察やってんだ。いいか。そいつがどれほどの人間の屑だったとしても、あんたにそいつを裁く権利はない。不正義に不正義で返したところで、勝ちにはならねぇ」

「この男は、私の唯一を奪ったの。涼音はこいつに二度、いえ三度殺された。だから私がこいつを殺す。裁くとか権利とか正義とか勝ちとか、どうだっていい」

「じゃあ、あんたの人生は! そいつにあんたの人生そっくりくれてやる価値があると思ってんのか!」


 累は瞬きひとつせずに、血走った目で捲くし立てる。

 けれど明星は、累の剣幕など物ともせずにからりと笑った。


「涼音が死んだ時点で、私のすべては終わったの」


 スマートフォンに、明星の指が滑る。百々は咄嗟に、「明星さん」とほとんど金切り声のような声を発した。


「終わってません。勝手に終わりにしないでください。私との勝負が途中です。私に私の仕事をさせてください。サイキックのあなたがいないと、私は私の仕事を完遂できない。あなたが生きていないと困る人間がここにいるんです!」


 百々の無茶苦茶な要求に、明星は困ったように首を傾げた。

 だが、それも刹那のことだった。すべてを遮断するように、瞼が落ちる。


「……ほら、班長さん。早く退避命令出さないと、本当に巻き込むわよ」


「明星!!」


 累が吼える。

 しかし、もはや明星は百々たちなど見ていなかった。ただ鷲津だけを一心に見つめている。


『境木、鳥居、今すぐ退避! 命令だ。従え!』


 鼓膜を破るような八森の怒鳴り声に、百々は弾かれたように累の腕を掴んだ。

 こちらを振り返った累の顔が一瞬歪む。燃えるような怒りを宿した眸は、僅かに濡れていた。

 百々は驚いて手を離しかける。しかし累は百々の腕を強引に掴み返すと、部屋の外までひと息に駆け抜けた。


 部屋の外に出た瞬間、青みを帯びた橙色の閃光が走る。ほぼ同時に、強い力に引っ張り込まれた。


 辺りを揺るがすような破裂音がして、熱風が肌を嬲る。

 遅れて、ぱらぱらとなにか乾いたものが雨のように降ってきた。


『――しろ! 応答しろ! おい、お前ら生きてっか!?』


 キンキンと脳髄に響く声に、そっと瞼を押しひらく。

 百々は頭を庇うように下を向かされて、累の身体に抱き込まれていた。

 無理やり仰向けば、天井から剥がれ落ちた壁の破片や小さな木片などが累の顔や身体に付着していた。首筋には擦過傷があって、皮膚が剥がれて血が滲んでいる。


「境木さん!」


 咄嗟にハンカチを押し当てる。累は大袈裟だとでも言いたげに顔を顰めた。


「……問題ねえ。八森さん、二人とも無事です」


 無線の向こうで、長い長い溜め息が落ちる。


『可能な範囲で状況確認だ。もう間もなく応援が到着する。救急隊も向かってる』

「了解です」


 累はそう応えて、百々を見下ろす。累はもう、百々の同行を渋るような態度は見せなかった。

 すぐ傍にあった別の部屋でインカムを外し、バスルームで頭から水をかぶる。それから明星たちのいる部屋の前に取って返した。

 部屋の中からは、なにかが焦げたようなにおいと噎せ返るような鉄錆のにおいがしていた。


「行くぞ」


 躊躇いを打ち棄てたその声に頷いて、百々は消火器を手にした累の背中を追った。

 ベッドこそ燻っていたものの、中に火の手はさほど回っていなかった。

 累がシーツに燃え移った火を手早く消化し、もくもくと煙を上げている室内をスマートフォンのライトで照らしながら手探りで進む。奥の窓硝子も鏡も無残に割れて、そこかしこに飛散していた。足取りは自然慎重なものになる。


 鷲津がいたあたりには、血だまりと細かな肉片がこびりついてこそいたが、それ以外にはなにもなかった。

 それだけが遺骸のすべてだった。


 不思議と吐き気すらも込み上げてはこない。それが人間であったものだと脳が認識するのを拒否しているのかもしれなかった。

 百々は茫然とその横を通り過ぎる。奥の壁に、なにか人影のようなものを見つけて目を瞠った。


「明星!」


 累が声を荒げる。


 急いで駆け寄れば、明星はかろうじて人の原型を留めてはいるようだった。そうとしか表現しようがない。

 爆風で吹っ飛ばされ壁に叩きつけられたのか、肩は変な方向に曲がり、腹部からは大量出血していた。煙でよく見えないが、足も片方欠損しているように見える。


 百々はジャケットを脱ぐと、彼女の腹部に押し当てた。累も自分のそれで腿の辺りを圧迫する。

 その行為にもうほとんど意味がないことは、百々と累以上に明星がよく分かっているようだった。


 瞼を痙攣させながら、明星は視界を閉ざしていく。


「もうすぐ救急隊が到着します。あと少しの辛抱です。治ったら全部聞かせてもらいますから、目を瞑ってはいけません」


 百々の言葉に、明星は軽く笑った。その顔は、青ざめるを通り越して土気色だった。


「もうすぐ失血死、の間違いよ。……あなたも……しつこいひとね。そのしつこさに免じて、最期にひとつだけ、教えて、あげるわ」


 そう言って、明星は累のいるあたりを見やる。もうほとんど視力も失っているのだろう。焦点が合っていなかった。


「なんで、こんな女が、プラスチック爆弾なんかって……思って、いるでしょ。正解、よ」

「明星、もう喋るな」


 累の唸り声にも、明星は耳を貸さない。


「モリミヤ、ジンって……知ってる? 知ってるわよね、百々さん、なら」


 百々は顔色を失った。

 その場は異臭と駆けつけてくる爆発物処理班のいくつもの足音と、視界を埋め尽くす煙とで感覚という感覚が満たされていたはずなのに、色も音もにおいも温度もなにもかもが抜け落ちていく。


 残ったのは、雨音だけだ。

 外から打ちつけてくる灰色の雨の音ではない。過去から降りそそぐ、呪わしい音だった。


「世界を正したがりの、やさしい、ひとよ。ぜんぶ、あのひとのおかげ。あなたに逢うのを、楽しみにしている、と。そう、言っていたわ。私の人生を惜しんでくれた、あなたたちに、せめてもの、餞、よ」


 明星の言葉は、奇妙に捩じれて滲んで、百々の耳には届かない。

 それきり明星は、瞼を閉ざす。


 累の咆哮が、ここではないどこかを見つめる百々の思考を僅かに乱した。

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