第16話 星と焔
始まりは苛立ちだった。
宮野涼音。名前に似合いの、愛されて育った清らかな少女だった。
対する明星の幼少期は悲惨だった。
アイドルなんてものになる前は、ほとんど父母にネグレクトされて育ち、小学校でも中学校でも友人のひとりもいないどころか、ぶつぶつ物に話しかけるのを気味悪がられて虐められる日々だった。だから父の気まぐれで東京に旅行に行ってスカウトを受けたとき、両親が子どもに意志など存在しないみたいに明星を芸能事務所に売り渡したことも、別段ショックではなかった。
明星は歌もダンスも好きではない。アイドルになりたいと思ったことなど一度もない。同じグループのメンバーにも、興味はなかった。けれども芸を磨き、この世界で一流になれば、ひとりでも生きていける。その一心で死に物狂いで仕事に取り組んだ。
「凜香は本物だね」
十七の夏、レッスンを終えた宮野が話しかけてきた。
頬がばら色に上気して、薄暗い廊下ですら彼女が歩けば絵になって、それが無性に腹立たしかった。
「ナンバーワンのくせして、嫌味?」
「またそういうこと言う。周りは、わたしがなにをしても見てないもん。わたしの歌がどうだろうがダンスがどうだろうが、わたしがにこにこしていい子ちゃんなことを言っていれば、それでよろこぶ」
はじめて、宮野の眸が翳りを帯びる。
贅沢な悩みだと思った。
明星など、少しでも音を外せば、振り付けを間違えれば見向きもされなくなる。性格の悪さは有名で、ナンバーツーの座に登り詰めたのも世間の珍しいもの見たさに他ならないのだと自分でもよく分かっていた。
「きっと数年後わたしが消えたところで、第二の宮野涼音がどこかで上手くもない歌をうたって下手くそなダンスを踊ってる。でも、凜香はちがう。唯一無二。だからね、わたしは凜香が羨ましい」
宝石じみたうつくしい眸が、明星を一心に見つめていた。いつも綺麗ごとだけを口にする小づくりの唇が焦燥に歪み、眸の奥に燃え滾るような怒りの焔が見えたような気がした。
瞬間、生涯相容れることはないと思っていたこの少女が、みずからの鏡合わせの存在のように思えた。
それから十年近くの歳月が流れた。お互いに何人かの男や女と付き合ったり別れたりして、そのうち同じ男に捨てられ、そんなしょうもないきっかけでふたたび話をするようになった。
宮野とは二週間に一度は食事をする関係を続けていて、時折互いの家に泊まりに行ったりもした。
だが近頃は明星はタレント業で成功を収め、宮野も俳優として順調に足場固めをしているところで、お互いになかなか休みの合わない日が続いていた。
だから、突然夜中に宮野から電話が来た日は驚いた。
「イメチェンしたくて」
そう言う声は、今から思えば少し震えていたように思う。
「涼音はそのいい子ちゃんスタイルが似合ってるんだから、それを貫けばいいじゃない」
「うん、でも凜香みたいに舐められない女になりたくて。戦闘服が欲しいの。凜香、選んでよ」
「なにそれ」
くすくす笑って言えば、宮野も声を上げて笑った。それから、「色々終わったら泊まりに行っていい?」と珍しく甘えたような声音で尋ねた。
翌日、宮野とウィンドウショッピングを楽しんだ。その日の彼女は明るくて楽しげに見えた。
それから約ひと月で、宮野は殺された。
――明星の、今、目の前にいる男に。
*
目が覚めたら、世界が一変していた。
そんな、よくある三文小説の出だしのような事態に自分が巻き込まれるだなんて想像だにしなかった。
鷲津はホテルの部屋の絨毯に膝をついて、がくがくと震えながら、目の前の処刑人を見上げていた。
首元を、冷たい筒状のものが首輪のように覆っている。爆弾だと女は告げた。女の手にはスマートフォンが握られていて、それが起爆装置になっているようだった。
部屋に辿りつくと同時に酒を勧められ、気づいたときには床に這いつくばっていた。薬物を混入させられたとすぐに気づけたのは、それが自身がいつも使っていた手口だからに他ならない。
女はそれまでの従順な態度が嘘のように温度のない表情で、起爆装置を撫ぜていた。
すぐに女の真意を理解して、鷲津は乾ききった唇を舌で湿らせて、猫撫で声を発する。
「宮野涼音の名誉回復のために、なんでもする」
明星は、鷲津の申し出が聞こえなかったのか、ぴくりとも動かない。
「君の要求は、宮野の死の真相を世間に公表することだろう! なんでもするから早く解放してくれ!」
叫び声も、雨が窓に強く叩きつける音に掻き消されて、どこか空回って室内に反響した。
「……それは、世界を正したがりのどこかの誰かさんが代わりにやってくれたみたいだわ」
明星はそう言って、タブレットの画面をテレビにつないで映しだす。
そこには鷲津の悪行が事細かに記されていた。別の意味で、血の気が引いていく。
身に覚えのあるものがほとんどだったが、まるで関与していない理解不能なものも並んでいた。
「こんなもの、いい加減もいいところだ!」
「ええ。世間に真相なんて教えたところで意味はない」
明星は、他人に爆弾を巻いて起爆装置を手にしているとは思えない淡々とした様子で言いながら、タブレットの電源を切る。
その様子に、脂汗が浮かんだ。
明星の目的は、宮野の死の真相を世間に知らしめることだと思っていた。
しかしどうやら、彼女はそのことに興味がないらしい。
「私はただ、あなたがぐちゃぐちゃになって死ぬのが見たいだけ」
明星は能面じみた顔をして、そう言った。
静まり返った池の水面で錦鯉がぽちゃりと跳ねるような、他愛もない声だった。
瞬間、この得体の知れない女は、まるで鷲津と対話をするつもりなどないのだと理解した。
全身の血が冷えきり、自分の心臓の音だけがやけに煩く世界を
明星の指がスマートフォンの上を滑る。
全身の力が抜け落ち、その場にみっともなく頽れる。
瞼を下ろしかけたとき、重いドアが物凄い勢いで開く音がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます