第18話 誰が駒鳥を殺したの?

 無理やり搬送された東京中央病院での簡単な診察を終え、百々は累と病院の入り口で立ち尽くしていた。

 この後は、八森が車で迎えに来てくれることになっていた。しかし道が混んでいるらしく、一向に車の姿は見えない。

 庇から落ちてくる滴にぼんやりと手を伸ばし、百々は掌で雨粒を踊らせる。


「知ってるのか」


 脈絡のない問いだった。

 だが累のその言葉の意味は、九分九厘正確に理解していたと思う。


「……私の家族のことは、ご存知ですよね」


 百々は駐車場の出口の赤と白のゲートバーが上がったり下がったりするのをなんとはなしに見つめながら、掌を下に返した。

 水滴が袖口に溜まって、じっとりと重さを孕んでいく。

 百々は累に少しも視線を向けなかったが、どうやら彼はこちらをきつく見つめているようだった。

 そのまなざしの強さに、肌がひりひりと灼けるような錯覚に陥る。


「母親のほうならな」

「それで充分です。父親については、私も知りませんから」


 サイキックハンターとしてメディアに出演していた最盛期、百々の家族構成と来歴は週刊誌の一面を飾った。

 今ではもうすっかり世間の百々への関心は別のものに移ろっていたが、その肉親が起こした事件はこの国の忌まわしい記憶として人々の心になおも穿たれている。


「母、鳥居百合子は、クレアボヤンス――いわゆる透視の能力者を自称する、カルト教団『ひかりのいえ』の導師でした」


 SNSや動画などを駆使して親しみやすさをアピールした『ひかりのいえ』は当初メディアに持て囃されてさえおり、歪んだ世界の是正を謳って全国から信者を獲得した。だがやがて爆弾を使った無差別テロ事件並びに要人を狙った暗殺事件を起こすようになり、日本中を震撼させた。


「十四年前、鳥居百合子をはじめとする教団幹部及び犯罪に関わったとされる信者が逮捕され、教団は解体された」


 百々の言葉を引き取って、累が続ける。


「ええ。そして、東京拘置所で鳥居百合子は首を吊って死んだ」


 それは、五月雨の降りしきる夕間暮れで、百々は真新しいセーラー服に袖を通し、東京拘置所に面会に行く途中だった。

 救急車のサイレンの音が聴こえたのは、小菅駅を出てすぐだった。その行き先がどこかなんてことは思考の端に上ることもなく、囚人となった母になんと声を掛けるか、そればかりを考えていた。百々があまりに緊張していたからか、付き添いで来てくれた児童養護施設の職員が駅前の紫陽花が濡れて光を弾いている様を指差して、「綺麗だね」と意味のない笑みを浮かべたのを覚えている。

 辿りついた駐車場には、赤と白の車が停車していて、パトランプの赤が物々しく明滅していた。そうして玄関から飛び出してきた救急隊の姿を見つけて、百々は凍りつく。


 ストレッチャーに乗せられていたのは、母の変わり果てた姿だった。


「モリミヤジンは、百合子が教団を立ち上げる前に娘の私に漏らした名前です。夢見がちで世間知らずだった母がおかしくなったのは、そのモリミヤジンと出逢ってからだと私は記憶しています。『ひかりのいえ』の幹部にも信者にも、モリミヤジンという名を持つ人間は存在しません。母のその言葉以外、その人物の関与を裏づける証拠はない。ただ、奇妙なことに、私がサイキックハンターとして活動する中で出会ってきた超常犯罪に関わった人物の何人かも、その名前を口にしました。モリミヤジンさんが助けてくれたと。母のときと同様に、その名前以外の手がかりは一切ありません。そこで、私はある一つの仮説を立てた」


 百々は小さく息を吸う。湿気た重たい空気が肺腑を満たす。

 この話を他人にするのは、これがはじめてだった。


「モリミヤジンは、超常犯罪者のためのコンサルタントなのではないか」

「モリアーティ教授のようにか。眉唾物だな」

「ええ、ですが無視はできない。明星さんを通してですが、私を名指ししてきたのは今回が初めてです」


 雨音が遠ざかり、刹那ゆらりと視界がくらむ。

 腹の底でひとつ、波音がした。今までにも何度か聞いたことのある、馴染みのある甘やかな音だった。


「鳥居」


 不意に腕をきつく掴まれたが、百々は累を振り返ることはせずに、前方を指差した。

 折よくシルバーのセダンが、せっかちなブレーキ音とともに停車する。


「……八森さん、来ましたよ」


 累はどこか苛立った様子で舌打ちをすると、乱暴に百々の手を離した。



 * * *



 それから連日、テレビもネットも鷲津と明星のショッキングな死の話題で持ちきりだった。

 鷲津の所業は、数々の女性芸能人や業界関係者の告白によって白日の下に晒された。もっとも、反論の言葉を持たない死者を責めたてるのは良心に悖るという思いもあったのか、あくまでSNS上の運動に留まり、この問題は有耶無耶なまま闇に葬られるかに思えた。


 風向きが変わったのは、高瀬と西東による共同の記者会見が開かれてからだ。西東と宮野の写真流出の経緯が、すべて二人の口から語られた。

 高瀬は自らの不注意を深謝し――もっとも今回の件で彼女は被害者であり謝罪する必要は本来ないはずだったが、彼女は矢面に立ってでも真実を訴えることを選んだようだった――、西東は宮野との関係を再度きっぱり否定し、自らのファンたちに節度ある振る舞いを呼び掛けた。


 宮野の動画は少しずつではあるが広大なネットの海から抹消されつつある。日下部にリベンジポルノ動画を売った彼女の元恋人も、公表目的提供罪で逮捕されたらしい。


 それから、五月二十八日号に掲載される予定だった件の告発記事は、週刊ジャメヴの今週号とオンライン上でも公開された。

 商魂たくましいのか、それとも週刊ジャメヴ編集部の内部にもジャーナリズムの精神を失っていない文士がいたのか、日下部が社内のPCのフォルダから削除していたものを発掘して再構成したものらしい。


 だが一方で、性犯罪者の家族として、鷲津の妻子の写真や個人情報はネット掲示板やまとめサイトなどで拡散され続けている。

 宮野の中傷をしていたその口で、今度は正義の味方面をして鷲津の肉親の人生を破壊することに余念がないらしい。


「人間に理性なんてものはないのかもしれねぇな」


 累は定位置になった来客用ソファに寝転がりながら、スマートフォンを眺めている。


「嘆いている暇があったら、手を動かしてください、手を」


 雨後の筍のようにネット上に溢れかえる中傷をひとつひとつ違反報告しながら、百々は小言を漏らす。


 デスクに頬杖をついた八森は、ネットニュースのコメント欄に苛ついた様子で羊羹を頬張っていた。

 一部には明星の犯行を過剰に擁護する声があり、彼女の犯した犯罪を神聖視するような輩が湧いて出ていた。


「聖人を殺そうが、悪人を殺そうが、殺人は殺人だ。私刑を正当化なんぞしたすえには、法治主義がぶっ壊れる。俺ぁそんなのはごめんだね」


 楊枝を齧りながら八森はそう言って、「お」と声を上げる。


「明星の家から押収された日下部のパソコン、中を専門家が浚ったが、出なかったみたいだな。例の宮野の告発文書」


 百々は立ち上がって、八森のパソコンの画面を覗き込む。


 明星の起こした事件はもはや超常犯罪対策班の手を離れて、捜査一課に引き継がれていた。

 八森と知己の仲だという捜査一課の担当捜査官からのメールには、明星が鷲津による性犯罪とその隠蔽工作を知った情報源が不明だというぼやきが添えられていた。


「……単純に、生前宮野さんが明星さんに漏らしたと考えるのが自然かと思いますが」

「それか、サイコメトリー。……なんてな」


 驚いて振り向けば、いつの間にか累が背後に陣取っていた。オフィスチェアの背もたれに顎を乗せて、冗談めかして口の端を上げる。


「……境木さんがトンデモ科学やデマを本気にするタイプだったとは意外です」

「俺も信じてるわけじゃねえよ。けど、自分が見たことねえからって、存在を否定していいのか。なにか目に見えねぇもんを見落として、それを踏みつけにしていないか。そう考える」


 累は珍しく生真面目な顔をして、ここではないどこかを見つめる。

 ほんの一瞬、累の眼差しに囚われてしまったことを恥じて、百々は彼をきつく睨み上げた。


「サイキックを自称する人間に食い物にされて、人生を壊される人もいます。あなたの言葉は到底容認できません」


 百々が誰のことを指してそう言ったのか、累には筒抜けだっただろう。

 百々を一瞥した彼は、躊躇いまじりに吐息じみた声を漏らす。


「……だったらそう言うお前は、なんでそんなに苦しそうなんだよ」


 累の言葉の意味はまるで百々には理解できなかったのに、暫くの間残響のように耳に残った。




 * * *




 明くる日、映画『誰が駒鳥を殺したの?』が封切となった。

 街中の巨大な液晶に、予告編が流れている。


「それはわたし。わたしが駒鳥を殺したの」


 音声モンタージュで作られた誰のものとも知れない声が、無数の雀が羽ばたく音とともに都会の雑踏に紛れて消えた。

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