第9話 フラワーカフェ青ばら

 有楽町線から千代田線、そして小田急線に乗り換えて電車に揺られること一時間。神奈川県町田市などと揶揄される県境にある猥雑な町は、れっきとした東京都の行政区画にある。

 ラッシュではないとはいえ、ホームには人がそこそこ溢れていたものの、南口改札に人影は疎らだった。


「捜査車両がねぇってどういうことだ」


 地を這うような怨嗟の声を吐いているのは累だ。


「仕方ないでしょう。元々うちは、クレーム処理係みたいな位置づけだったんですから。生活安全部の車両が空いていたら使えますけど、最近は少年犯罪なんかで忙しいんですよ」


 そんな応酬をしながら南口の階段を登り、すぐ正面の珈琲屋を左に折れた道をしばらく進む。

 昔は百々もこの街に住んでいたが、何年経ってもこの街は変わらない。

 有名大学の合格者数をでかでかと列挙した予備校がいくつかあったかと思えば、そのすぐ傍にはいかがわしい店の幟がはためいていたりする。

 混沌を絵に描いたような通りを抜けると、やがて住宅街が見えてきた。

 勾配がきつい坂道を、額に滲んだ汗をぬぐいながら登る。腕に当たる細雨も、すぐに生ぬるい温度へと変わった。

 ジャケットはすでに脱いで小脇に抱えていたが、三十度近い気温とむしむしとした湿気でシャツの内側はもう汗ばんでいる。まだ盛夏にはほど遠いのにこれだ。東京の人間は多分、今にコンクリートの灼熱地獄で死ぬのだと百々は半ば本気で信じている。

 坂を上りきり、三叉路を右手に折れる。

 そうしてようやく、突き当たりに日本家屋が見えてきた。


 この雑然とした街にはひどく不似合いなようでいて、まるでそこにあるのが当然であるかのような顔をして佇む一軒家。

 さざ波だった甍は少々色褪せており、漆喰の白すぎない白と調和していた。築年数はおそらく五十年や六十年どころではない。しかしよく手入れされた外観は洗練されていて、古めかしさよりもどこか新しさを感じさせた。

 切妻屋根のすぐ下には、真新しい妻飾りがちょこん、と添えられている。ばらを描いた黒一色の家紋だった。

 入り口はガラス張りの引き戸になっており、中に色鮮やかな花々が咲き群れているのが見える。花がカーテンのような役割を果たしていて、通りがかりに外から中の客が覗かれる心配もない。

 軒下にぶら下がった看板には、「青ばら」という屋号が記されている。そのすぐ下には、アンティークの鉄製のスタンド看板があって、黒色の黒板に『花屋×喫茶「青ばら」、十時から二十一時、日・月定休』と几帳面な文字で案内が綴られていた。


 先に着いた累はというと、軒先でシャツの前の釦を三つくらい開けて、前立てを掴んでぱたぱたと風を取り込んでいる。


「服、ちゃんと着てください。露出狂を連れていると思われたくないので」

「あ?」


 その気はないのだろうが、不良みたいな声音で凄んでくる。

 百々は素行の悪い相棒のことは捨て置き、引き戸に手を掛けた。


 たちまち甘く瑞々しい香りが肺を満たす。ひんやりとした冷気が火照った身体を冷ましていった。

 中はすっかりリノベーションが施され、だだっ広い土間が続いていた。床や棚に並んだ切り花やプランターは配置にまで気を配った美術館のような佇まいをしており、天井からもドライフラワーが吊り下げられている。


「いらっしゃいませ」


 絵本の一幕のような内装に似合いの、柔らかな声がした。


りょうちゃん」


 百々が呼びかければ、遼は少し驚いた様子で、手に持っていた万能剪定鋏を腰から提げたシザーケースに突っ込んだ。


「しばらく仕事で来られないって聞いていたけど、どうしたの?」


 唇が淡い笑みを象り、色素の薄い眸が弓なりに細まって百々を見つめる。

 線の細い涼しげな顔立ちに、スクエアタイプの銀縁の眼鏡がよく映えていた。


「ええと……ちょっと、仕事関係で」

「なんだ。後ろの彼は、彼氏さんじゃないんだ?」

「は?」


 呆気にとられた百々をよそに、遼は口元に手を当ててくすくすと笑う。

 百々にとって、累はまかり間違ってもプライベートのパートナーとしては選びたくないタイプの男だ。

 品がないし態度は大きいし、わざと挑発的なことを言って相手の反応を伺うようなところは最悪の極みだと思っている。もっとも、百々にも自分のことを棚に上げている自覚はあったが。


 遼は、居心地悪そうに身じろぎした累の姿を見てとって、軽く会釈をした。


「失礼を。『青ばら』の店主をやっています、南字みなみじ遼です」

「はあ、鳥居の同僚の境木です」


 図体の大きい累と並ぶと、遼はことさらに細く見える。

 百々は小走りに遼に駆け寄ると、口元に手を当ててつま先立ちをした。察しよく遼が身をかがめる。


「今、どなたかお客さん来てますか?」

「いらっしゃってるよ、おひとりだけど。それがどうかした?」


 小首を傾げた遼の腕を思わず掴む。

 二の腕まで袖が捲り上げられて覗いた肌は花屋の職業病というべきか傷だらけで、細かな擦過傷が目立って見えた。


「それって俳優の西東さんだったり――しませんか?」


 百々の問いに、遼の腕が強張る。

 遼はべらべらと客のプライベートについて触れ回るようなタイプではない。遼は食い入るような視線から逃れるように明後日の方を向いたが、それで誤魔化されるような百々ではなかった。

 遼は、昔から嘘がとても下手だった。


「遼ちゃん、大切なことなんです。お話、させてもらえませんか?」


 百々の訴えに、遼は小さく息をつく。


「百々ちゃんに免じて先方に伺ってみるけれど、もし断られたら君たちには帰っていただくからね」


 そう念押しして、遼は立派な柾目の長押をくぐると奥にあるテーブル席へと誘った。こちらも床は三和土になっている。西東の姿はない。

 さらに右奥には上がり框があって、奥に和室や二階へと続く階段がある。遼はフラワーデザイナーの仕事もしていて、ここで教室も開いているのだった。

 西東はスキャンダルの最中ということもあって、おそらく奥の個室にでも案内されたのだろう。


「こちらでお待ちください」


 遼は慌ただしくグラスにレモン水を注ぐと、奥に引っ込んだ。

 それを認めるやいなや、累はグラスに口もつけずに立ち上がる。


「俺は裏口に回る。鳥居は正面入り口へ行け」

「は?」


 百々は信じがたい気持ちで累を見上げた。

 まさか西東が話に応じなかった場合、無理やり捕まえようとでもいうのか。


「ちょっと、西東さんは容疑者ってわけでもないんですから。しかも今はきっとマスコミに追い回されて精神的にも追いつめられているでしょうし。そんなやり方はしたくありません」

「西東が写真をばら撒いた可能性だってなくはない。たとえば、宮野に振られた腹いせに、自滅も織り込み済みでな」


 それは、百々とて考えなかったわけではない。動画も西東とのもの、という説もネットには出回っていた。それを否定する証拠はまだ挙がっていない。


「話を聞く前から決めつけるのはどうかと思います。それに、いくら大義があっても相手だって人間です。それを、忘れたくはない」


 両手でグラスを引き寄せれば、氷がからん、と涼しげな音を立てた。

 汗をかいたグラスが手だけでなくシャツの袖まで濡らしたが、すぐに体温で生ぬるい不快感へと変わる。


「霊能者相手とは打って変わって、お優しいんだな」

「……なにが言いたいんですか」


 軽く睨みつければ、累は肩を竦めて口の端を歪めた。

 それから思いなおしたように百々に向きなおる。


「西東の話はちゃんと聞く。鳥居の言うとおり、決めつけねぇために聞くんだよ。だが逃げられちゃ、聞くもんも聞けねぇだろうが」

「断られた場合は、メモを書いて遼ちゃ――南字さんから渡してもらいます。私はあくまでコンサルで警察官ではありませんから、他の場所では、境木さんのやり方に従います。でもここでは、あなたの言うことは聞けません」


 「青ばら」はただのフラワーカフェではない。遼は臨床心理士の資格も持っていて、この店に集う人たちを花で癒しつつ心のケアも行っている。

 小学校卒業間近で児童養護施設に入った百々も、施設に馴染めずしばしば遼の世話になったものだった。

 遼への恩義は少女時代に留まらない。大学の博士課程を中退し、警察のコンサルタントとして抜擢される前も、百々はだいぶ荒れていた。肉親にまつわるとある事件と自分の関係をマスコミに暴き立てられ、ちょうど西東と同じようなバッシングを世間から浴びていた。

 そのときも遼は百々のことを匿ってくれて、ここはシェルターなのだと、だから安心していいのだと言ってくれた。


 百々もこうして警察の立場で「青ばら」に足を踏み入れたので、累ばかりを責められる立場ではない。けれどこの場所では百々も最低限の礼儀くらいは尽くしたかった。

 硬直して重たい空気が沈殿する室内に、軽やかな足音が戻ってくる。


「了承してくれましたよ、西東さん」


 百々は弾かれたように顔を上げた。

 信じられない思いで、遼を見やる。どうやらそれは累も同じだったようで、訝るように目を伏せた。


「元々警察の方にお話したいことがあったようです。ですが、事務所のガードが堅くて、なかなか行動に踏み切れなかったと」

「ご協力、痛み入ります」


 儀礼的な会釈をした累の腕を、そっと遼が掴んだ。


「念のため申し上げておきますが、彼の心身を害するような発言は厳禁です。それを了承していただけるなら、どうぞ。それと……お二人の間の険悪ムードもしまっておいてくださいね」


 遼は百々たちの会話は聞いていなかったはずだが、色々と漏れ出ていたらしい。仏頂面の棒読みで「善処します」と呟いて腕を取り返すと、累は靴を脱ぐ。


「遼ちゃん、その、西東さんに酷い真似はしないから」


 おずおずと申し出た百々に、遼は微笑んだ。

 白魚のような指先が滑り、百々の耳たぶのあたりの髪を掻き混ぜる。

 あるかなきかの甘やかなばらの香りが揺蕩い、鼻腔をくすぐった。


「君の情の深さは、よく知っているよ」


 そう言って、遼は百々の背中を押してくれる。

 百々は困ったように笑うと、累の後を追った。

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