第17話:長い1日が終わった後
夜も更け、泥酔して眠りこける連中も外に摘まみ出されたのだろう。大広間から漏れ出てくる音も消え、事務室もシーンと静まりかえっている。
他の事務員も既に全員帰宅し、この部屋でひとりぼっちとなったダイは、机上に灯した小さなロウソクを頼りに書類の上にペン先を走らせる。
今日1日だけで何回ペン先を浸したのだろうか。ふとインクの入った瓶に視線を移すが、ロウソクの小さな炎程度では、暗闇との境目が曖昧な黒いインクの残量を確認することはできなかった。
視線を元に戻し、書類の最下部に用意された署名用の下線が引かれた場所に自身の名前を書き記すと、ペンをペン立てに戻し、インクの瓶の蓋を閉める。
すると、ダイはフーッと大きく息を吐きながら、思い切り背もたれに体を預けた。
息によって揺られた炎が辺りを不規則に照らす。
しばらくボーッとしながら、明るくなったり暗くなったりを交互に繰り返す机の端の方を見詰めた。
本当なら少しホムラの様子を見るつもりだったが、結局今日はほぼ丸一日この部屋に閉じこもるハメになってしまった。
明日こそはと思ってみたものの、明日は明日でお役所に出す書類作成がある上に、不祥事を起こしておきながら報告しなかった不届き者がノコノコと現れたら事情聴取もしなければならない。
もっとも、いつ誰が何をしでかすかわからないこのギルドのことだ。どうせ予定通りになど行くはずもない。
そんなことを考えているうちにふと我に返ったダイは、ゆっくりと立ち上がると、ロウソクの芯を指で摘まんで火を消した。
事務室の扉を開けると、扉越しにでも聞こえるほど大勢の人で賑わっていたのが嘘のように、閑散としただだっ広い空間が広がっていた。
梁からぶら下がって部屋中を照らしていた10数個のランタンもほぼ消され、まだ火が灯っている2、3個だけが大広間に薄らと明かりを広げている。
そして、そのうちの1つのランタンの真下に、向かい合わせになってグラスを片手に談笑する1組の男女の姿があった。
「うそ~。かわいそ」
「ほんと、俺のことなんていっつもお構いなしだよ」
そう言ってグラスの中の酒をグイッと飲み干すミカルと、それを何やら面白そうに眺めるレーゼ。ダイはそんな2人の姿を見て、ようやく心が仕事から解放されたのを感じた。。
2人の方へゆっくりと歩み出すと、普段は気にならないような、床が僅かにきしむ音が静かな大広間をこだまする。
それは2人の耳にも届いているようで、同時にダイの方に顔を向けて揃って小さく手を振った。
「おつかれさま」
「おつかれ~」
それに対して、おつかれ。といかにも疲れたような調子で返したダイは、そのままレーゼの隣に腰を下ろした。
「まだ帰ってなかったんだな」
「ちょっと俺の愚痴を聞いて貰っててね」
ミカルのその言葉に、ダイの脳裏にはすぐにナルカの顔がよぎった。自身も彼女には苦労させられているが、住まいを共にする家族ともなれば余計だろう。
「そっちも大変そうだな」
「まぁ君ほどじゃないよ」
ミカルはそう言ってクスッと笑う。そして、今度はレーゼの方を見て申し訳なさそうに顔の前で両手の手の平を合わせた。
「レーゼもありがとうね。わざわざ聞いてもらっちゃって」
「私もいい暇潰しになったし気にしないで」
レーゼは可愛らしく首を傾げニッコリと笑うと、それに。と付け足して、隣に座るダイに向け、横目でチラリと意味ありげな視線を向ける。
「どうせ早く寝たって誰かさんが遅くに帰ってくるせいで起こされちゃうしね」
「悪かったな」
何度も聞いた苦情に慣れた様子で軽く返事をすると、レーゼはもはやお馴染みとなったやりとりを終えて満足げにさっきのミカルと同じようにクスッと笑った。
「何か食べる?おかわり持ってくるついでに何か作るけど」
ミカルはそう言ってゆっくりと立ち上がる。
「じゃなんか適当に」
「オッケー」
空になった瓶を持って軽い足取りで歩いて行くミカルの背を見送ると、ダイはレーゼの方に向き直って口を開く。
「ナルカの話か?」
「当たり。また家賃全部払わされることになったんだってさ」
またか。ダイはフスッと微かに笑い声を漏らした。
「今回は何だ?」
「ホムラの晩ご飯代出したらお金がなくなったらしいよ」
「ほんと、あいつはホムラが好きだな」
「自分だって好きなくせに」
そう言って意地悪な笑みを浮かべるレーゼ。それに対し、ダイはふんと鼻で笑うと皮肉混じりに言う。
「いつまで経っても、こっちの気持ちには気づいてもらえそうにはないけどな」
すると、レーゼは呆れた様子で口の端からため息を漏らした。静かなこともあり、はあっという音が空気を振動させているのを強く感じる。
これからお小言が飛んでくることを察知し、ダイは思わず顔を逸らした。だが、それがかえって耳を無防備にさらす形となり、そこに合わせるようにレーゼはゆっくりと、そしてはっきりと言葉を放つ。
「どうなって欲しいのか素直に言えばいいのに」
素直になれとレーゼは度々口にするが、こちらとて何も意地を張って本心を口にしていないわけではない。
「それじゃああいつのためにならねえよ。自分でどうするべきか考える経験をした方がいい」
本人に成長の機会を与えるためにあえてそうしている。たとえそれで本人たちに疎まれようとも、それが自分の副ギルドマスターとしての責務だ。ダイは自分にそう言い聞かせた。
「そんなこと言って、ほんとは真正面から拒絶されるのが怖いんじゃないの?」
心を見透かされたように感じ、一瞬体をピクッと反応させるが、すぐに平静を装って煙を払うように顔の前で大きく手を振り、首を振った。
「人に嫌われるのなんて、そんな怖いもんじゃねえよ」
「でも、私は嫌われるのはイヤ。自分のことも。ダイのことも」
神妙な面持ちでレーゼはそう言った。そして、ダイの肩に寄りかかり、それ以上何を言うでもなくジッと体重を預けた。
トクトクと穏やかな鼓動が右腕を伝い、ダイの心臓にまで流れ、やがて2つの心臓が同調する。2人はそんな同じ音に耳を傾けた。
しばらくして、ポツリと優しい声でレーゼが語りかける。
「ホムラも他の子たちも、ちゃんと言えばわかってくれる良い子たちばっかりだよ?」
「わかってるさ……」
レーゼは肩によりかかったまま首を上に向け、上目遣いでダイの黒真珠のような目を覗き込んだ。ダイはボーッとしてしばらくその視線に気付いていなかったが、赤く透き通った瞳がこちらを向いていることに気が付くと、すぐに顔を見返した。
視線が混ざり合い、レーゼはゆっくりとダイの頬に向かって手を伸ばす。するとその瞬間、塩気の混じった香ばしい匂いが鼻腔に触れる。
2人してキッチンの方に顔を向けると、そこには何かが載せられた皿と、角張った酒瓶を持って気まずそうに佇むミカルの姿があった。
「えっと、そっち行って大丈夫そ?」
「「いつでもどうぞ」」
2人は声を揃えてそう言うと、レーゼはダイの肩に預けていた体を起こし、しっかりと座り直す。そして、グラスを手に取って僅かに残った酒をグイッと飲み干した。
「私もおかわりちょうだい」
レーゼが顔の前でグラスを揺らす。ちょっと待ってね。ミカルはそう言いながらゆっくりとテーブルまで帰ってくると、まずはダイの前に皿を置いた。
皿の上には湯がいた肉の腸詰めと、恐らくそのゆで汁で粉から戻したであろうマッシュポテトが盛られており、数時間忘れていた空腹の感覚を急速に思い出させる。
「いただきます」
ダイは手を合わせ、皿の端に載せられたフォークを手に取ると、肉の腸詰めにフォークを突き刺して口に運ぶ。
歯が腸を貫き、中に詰まった肉が口の中に広がる。それと同時にハーブの香りと黒胡椒の爽やかな辛みが鼻へと抜けていった。
「君も飲む?」
ミカルは瓶の上にかぶせたグラスをテーブルに置くと、コルク栓を引き抜きながらダイに尋ねた。
「トロッペンか……」
「でも赤だよ?」
なんとも言えない顔で瓶に視線を落としたダイに、ミカルは瓶をクルッと回して"トロッペン"という銘柄が刻まれた赤いラベルを見せる。
「高くてもこいつの味はどうもな……」
「えー勿体ない」
ミカルはそう言うと自分のグラスだけに注ぎ、酒をあおる。ゴクッと喉を鳴らした後に漏らしたはぁーという吐息が、飲酒の欲望へと誘惑しているようだ。
ダイは誤魔化すようにマッシュポテトを口に放り込む。しかし、未だ口に残ったハーブと胡椒の香りは、誘惑を振り払おうとする意思よりもずっと強かった。
この彩りもへったくれもない食事にアルコールを欠かすことなどできない。ダイはおもむろに瓶へ手を伸ばすと、テーブルの上に置かれた空のグラスに琥珀色の液体を注ぎ込んだ。
苦手なものとわかっていながら欲望に抗えなかった自分の愚かしさを呪いながら、意を決して一気にグラスを傾ける。そして、すかさず腸詰めを貪った。
すると、独特な水の風味がハーブと胡椒によって中和され、麦の味が口一杯に広がる。
気が付けば、ミカルと同じようにはぁーっという吐息を漏らしていた。
「美味しいでしょ?」
「悪くはない」
意味のない強がりを言ってみせたが、自分でおかしくなり、ダイはフッと吹き出して俯いた。すると、それにつられるようにミカルもクスクスと笑う。
「ちょっと!2人だけでイチャイチャしないでよ」
空のグラスを持ってお預けを食らっていたレーゼが突如割って入り、ダイとミカルに対して順番に抗議の眼差しを向ける。
「ほんと、放っといたらすぐ2人だけの世界に入る」
そう言いながらグラスになみなみと注ぐと、一気に半分ほどを飲み干した。そして、まだ気が済まないのか、ダイの顔を見詰めながら不満げな表情を浮かべる。
「あーあ、拗ねちゃった。君が構ってあげないから」
「そうだぞ」
なぜ放置した共犯者であるはずのミカルが糾弾する側にいるのか。なぜ拗ねているはずの当の本人が面白がって野次っているのか。この状況に疑問を持てる程度にはまだ冷静でいることに安心した反面、独り取り残された寂しさを覚える。
だが、それもほんの一瞬で、ダイはすぐに笑みを浮かべた。
「お前ら酔ってるだろ……」
本人らの返答など聞かずとも、酔っていることはわかりきっている。何せこんな時間まで2人を待たせてしまったのだから。
ダイは再びフォークを更に伸ばすと、先端に突き刺さった腸詰めと一緒に、待ってくれる人がいるこの幸せを噛み締めた。
弱冠の副ギルドマスター 志 @moto1_17
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