第16話:長い1日が終わる前






 時刻は18時を少し過ぎた頃。明かり窓に見える景色は黒一色で、外から光を取り込んでいた日中とは逆に、今では外へ光を放つ存在となっている。


 酒場にも日中より多くの人数が集まっており、賑やかな酒盛りが行われるなど、ホムラがよく知るギルドの姿へと様変わりしていた。


 昼前にはそこで飲み食いする大人たちに冷ややかな視線を送っていたホムラだったが、今は羨望の眼差しでチラチラと様子を伺う。


 当のホムラは、子供たちの授業を終えて戻ってきたミカルの後ろで書類の受け渡しをしたり、たまに混ざる依頼の相談に対応をしたりと、朝と同じくらいの忙しさに追われていた。


 看板にある案内の上では、受付を閉じる時間だが、夕方頃から依頼完了の手続きに訪れる者が多く、未

だ店じまいには至っていない。


 ミカルから受け取った依頼書を壁の引き出しの完了済み依頼書と書かれた場所に入れ、別の引き出しから報告書用の紙を取り出し、受け取った依頼書に書かれているものと同じ番号を記入してミカルに手渡す。


 何度も繰り返している内に、今自分が開いたのは依頼書の引き出しなのか、報告書の引き出しなのかがわからなくなってくる。


 それでも正しい引き出しを開け続けていると信じていたが、天板の上においた筈の報告書が依頼書だったのが何度かあり、そのたびに引き出しを開けるペースが遅くなっていく。


 しかし、それが幸いしたのか、徐々に入れ間違えもなくなっていき、引っ切りなしに人が来続けるここ10分は一度もミスを犯さなかった。


 気が付けば、常に5人ほどが並ぶ列ができていたカウンター前も1人が立っているだけとなっていた。


 「いやー、街で靴見てたら遅くなっちゃったよ」


 カウンターの前に佇む、ミカルと同じ金色に所々緑色が混じったボブヘアの女――ナルカ・エルケンス――は笑いながら身に纏った革のジャケットのポケットから乱雑に紙切れを取り出してミカルの前に置いた。


 「もっと早く帰って部屋の片付けしてよ」


 ミカルはため息と共にそう漏らしながらナルカが置いた依頼書に目を通す。


 依頼書の最下部に依頼人の署名と、今回は役所からの依頼だったため、管轄組織の捺印が押されている。


 ミカルはそれを確認すると、ホムラに依頼書を手渡し、報告書用の紙を受け取った。


 「それじゃあ、今度こそ期限内に出しといてね」「はいはい」


 ナルカは適当な返事でミカルの手から紙を奪い取ると、すぐに背後のホムラに視線を移した。


 「ねえねえホムラ、今日どうだった?」

「うーん……忙しすぎて大変だったよ……」

「今からダイをぶん殴って、元の仕事に戻すように言ってあげる」


 ナルカは冗談ともつかない口調でそう言うと、人差し指と親指の腹同士を擦り付け、パチパチと電気の弾ける音を響かせた。


 「あはは……」


 ホムラはそれを見て苦笑いを浮かべる。


 「でも、嬉しいこともあったんだよ?たくさんいろんな人が来て、面と向かってお礼を言ってもらえたり、お話を聞かせてくれたり」

「そっか……」


 すると、ナルカは胸の前に上げていた手を下ろし、戯れる猫を見るかのように口元を緩め、目を細めた。


 ミカルもそれを見て少し微笑んで2人の顔を交互に見回した。しかし、視界の端に時計を捉えると、すぐに顔を引き締めてホムラの注意を引くためにパンパンと手を叩く。


 「さぁ、ちゃちゃっと片付けてご飯にしよ」


 ご飯。忙しくて忘れていたが、その言葉を聞いた途端にグーと腹が高らかに叫び声を上げ、急激な空腹感に襲われた。


 1日中慣れない仕事をしていたことに加えて普段よりも昼食を摂ったのが早かったこともあってか、今なら豚くらいなら丸々1匹平らげることができそうだ。


 これだけ腹が減れば、いつも以上に食事が美味しく感じることだろう。ホムラは期待に胸を膨らませながらカウンターの上に広げられた書類やらペンやらを朝あった場所へ戻していく。


 「この紙ってどこに入れてたっけ?」

「それは下の引き出し」


 言われたとおりカウンターの下にある引き出しを開け、紙がくしゃくしゃにならないようにスペースを作りながら慎重にしまう。


 天板の上にあったものをすべて元あった場所に戻した後は、ミカルがいつの間にか持ってきた濡らした雑巾で天板の上を拭く。


 「台帳と依頼書しまってくるから、拭き終わったら受付のゴミの掃き出しお願い」


 ミカルはそう言うと、依頼書の束を台帳の上に載せて事務室の方へ歩いて行った。


 それを尻目に、ぐるりとカウンターを一周拭き終わった雑巾を広げてみると綺麗に手の形に黒くなっており、仕事を1日やりきったことを実感する。


 受付の中に落ちているゴミを掻き出すように箒で掃き、カウンターの出入り口辺りに集めた。後始末はいつもギルドを閉めるときにやっているので、今はここに集めておけば十分だろう。


 ピカピカとはいかないまでもそれなりに綺麗になった受付を見回し、ホムラは満足した様子で掃除用具を物置に戻しに行った。


 物置の入り口付近にある薄汚れた洗い場の上でバケツをひっくり返し、雑巾を濯ぐと、バケツの縁に引っかけて足下に置いた。


 「これでよし!」


 そう言って手に付いた埃を払うように、パンパンと手を2度はたいた。すると、それと同時にまたグーッと腹が大きな音を立てる。


 「ご飯♪ご飯♪」


 鼻歌交じりに手を洗い酒場に向かうと、一足先に着座して揚げた芋をつつくナルカがホムラの姿を見て手招きした。


 「1日よくがんばったね~」


 向かい側に腰を下ろすや否や、ナルカはホムラの頭に手を伸ばし、小動物に触れるようにソッと優しく撫でた。


 「ナルカもお疲れさま。今日もイノシシ退治?」

「そそ。最近子供のイノシシがよく畑を食い荒らしてるんだってさ」


 ナルカはそう言いながら、テーブルの上のカゴに盛られたパンに手を伸ばした。


 「そうだ、今日は奢ってあげるから好きなもの頼んで来なよ」

「ほんと?ありがとっ!」


 嬉しそうにキッチンがあるカウンターへ駆けていくホムラを見送ると、ナルカは再びテーブルの上の揚げた芋に手を伸ばした。


 すると、これまでの人生で恐らく一番聞いたであろう声が背中を伝って耳に入ってくる。


 「おつかれさま」

「おん」


 ミカルはゆっくりとナルカの隣に腰を下ろし、カウンターの前でメニューとにらめっこをしているホムラを一瞥した。


 「最近よくイノシシが出るね」

「ね」

「ここら辺でも時々街の傍まで来てるらしいよ」

「そ」


 ミカルの言葉に対するナルカの反応はどれも返事のような一音だけだが、特にそれを気にする様子もなくミカルは更に話しを続ける。


 「ホムラなら思ってた以上に頑張ってくれてるよ。もっと悪戦苦闘するかと思ったけど」

「そ」


 またも返事はその一音のみだったが、さっきよりも少し嬉しそうにしているのがミカルにはわかった。

 「人から必要とされるのが本当に嬉しいみたいだし、案外天職かもね」

「私は反対。あれだけの才能があるのにこんなとこに閉じ込めておくなんて」


 ようやく返ってきた返答らしい返答に、ミカルはそうだね。と小さく頷く。


 「ほんと、ダイの奴は何考えてんだか」

「ほんと、何考えてるんだろうね」


 ややむくれた様子でそう言ったナルカに同調し、ミカルも、うんうんと今度は2度大きく頷いた。しかし、その顔は口の端を綻ばせた柔和な表情をしており、まるで対照的だ。


 「マスター爺ちゃんも何も言わないしさ」

「きっと信じてるんだよ。ダイのことも。ホムラのこともね」


 ミカルの心の奥底から出したようなそんな言葉を聞いたナルカはそれ以上何も言わず、また揚げた芋に手を伸ばし口に放り込んだ。


 「ただいま~はあいあ~あれはえミカルもイハウお戻ってきてたんだおをっえひえあんあ


 右手に骨付き肉、左手にパスタ。更には、持ちきれなかったのか頭の上に焼き魚、口にはパンの入ったカゴの持ち手を咥え、ほくほくとした表情のホムラがテーブルの前まで戻ってきた。


 右手左手と順番に皿をテーブルの上に置き、頭を僅かに傾けて器用に空いた手の上に皿を落とすと、最後に咥えていたカゴを離した。


 「おつかれさま。ほんと1日よく頑張ったね」

「ありがとっ!ミカルのおかげだよ」


 ホムラはニコニコと笑いながら2人の向かい側に腰を下ろした。


 「どう?明日からも頑張れそうかい?」

「大変だったし疲れたし、しんどいよ」


 ホムラは、はーっと上を向きながら息を吐く。そして、今度は伏し目がちになってゆっくりと口を開いた。


 「でも、今日いろんな人に会って、神術士私たちって必要とされてるんだなって。私がここに来たのは間違いじゃなかったんだって、そう思えた……」


 ホムラのその言葉に、姉弟は揃って神妙になり、自分で自分の居場所を見付けたことに対して安心した気持ちと、少し背負い過ぎだと心配になる気持ちが入り交じった表情を向けた。


 しかし、そんな2人をよそに、ホムラは猫の目のようにコロコロと表情を変え、今度は真剣さを織り交ぜながら、されどニッコリと満面の笑みを浮かべる。


「それに、ダイにも負けてらんないし」


 それを聞いた瞬間、2人は一気に表情を崩し、ミカルは微笑み、ナルカは声を上げて笑った。


 「心配なさそうだね」

「いいねホムラ。その意気だよ」


 喧噪をかき消されずに漂うほどの笑い声も、日常茶飯事と誰ひとり気にも留めない。しまいにナルカは、長椅子の上にうずくまって腹を抱え始めた。


 ひとしきり笑ってナルカの腹筋も収まった頃には、ホムラもまたいつも通りの混じり気のない楽しげな様子に戻っていた。


 落ち着いたナルカは、指で濡れた目尻を拭いながら、テーブルの上を見回す。


  「ところでさ、ホムラ……」


 ナルカは更にもう1度テーブルの上を見回すと、ホムラの顔を見ながらポツリと呟いた。


 「それ全部食べるの?」


 ついさっきまでは自身が持って来た揚げた芋とパンが入ったカゴがそれぞれひとつずつだった筈だが、気が付けばカゴが1つ増え、その上、皿が3枚追加されている。


 「もちろん!お腹ペコペコだもん」


 ホムラはそう言って両手を合わせると、まず骨付き肉にかじり付いた。


 豪快に骨だけになっていく様を眺めながら、ナルカは頭をフル回転させる。


 今食べてるスペアリブが4切れで18シュムーク。パスタがナスのミートソースだから12シュムークに、スズキのムニエルが29シュムークと50ベルン。そして、パンの盛り合わせが9シュムーク50ベルン。しめて69シュムーク。


 確か銀行の残高が現時点で152シュムーク50ベルンで、今回の報酬260シュムークが入るのが早くて3日後。今週分のここでの飲食代56シュムーク50ベルンが引き落とされるのが4日後。その時点で残高は356シュムーク。ここから更に今月残り2週分の飲食代を120シュムークと仮定して残高は236シュムーク。


 「あ、払えなかったら自分で出すよ」


 計算している途中でホムラの声が脳内にカットインするが、自分で奢ると言った手前、今更払えないなんて情けないことを言いたくはない。


 「心配しなくても、そんくらい払えるよ」


 反射的に取り敢えず二つ返事をするが、脳内ではまだ計算が続く。


 今月分の家賃は380シュムークをミカルと折半して140シュムークなので、96シュムークと手持ちの現金131シュムーク63ベルンで今月の末日までゆとりのある生活を送る計画だった。


 今日69シュムークの支払いが発生すると、今週末時点での残高は167シュムーク。そしてそこから家賃140シュムークは確保していないといけないが、これ以上考えるのは気が向かないのでやめておこう。

 兎にも角にも、今月あと1着くらいは服が買えると思っていたが、ここに来て大きな誤算が発生してしまった。今月は少し我慢するか。嫌しかし……


 ナルカは激しく頭を悩ませたが、割とすぐに結論を導き出した。


 「ミカル、今月の家賃任せるわ」

「は?」





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