第3話:笑顔の小悪魔
「おはよっ!」
翌日、朝一番にギルドへ顔を出したホムラは、いつにも増して元気そうにギルドの面々と挨拶を交わす。昨日のことなどまるで気にしている様子はなく、寝て起きて無事に新たな1日を迎えたようだ。
「おはよう」
受付のカウンターの中から優しげな声で挨拶を返した金髪の男は、にっこりと笑いながらホムラに小さく手を振る。そして、ちょいちょいと手招きして、壁に埋め込まれた引き出しから1枚の紙を取り出してホムラに手渡した。
その紙には上から下までびっしりと文字で埋めつくされており、最下部にはこのギルドを象徴する大木が描かれた特徴的な紋章が押印されている。
「何これ?」
「今日からのお仕事の契約書」
ホムラはそれを聞いてギョッとした様子で顔をしかめた。たかだかギルドの雑用をやるだけでこんな仰々しいことをやる必要はあるのだろうか。
「ねぇミカル?」
紙をジッと見つめながらホムラは名前を呼びかける。すると、男――ミカル・エルケンス――はカウンターの上に置かれたペンと指先ほどの小さな剣山をホムラの近くに寄せた。
「働いてお金を貰うっていうのは責任が伴うんだ。たとえ、どんな些細な仕事でもね」
「それはわかってるけど……」
「これは、君が仕事を引き受けたという責任を持った証でもあり、僕らが君に仕事を任せるという信頼の証でもあるんだ。だから、これにサインすることはとても意味のあることなんだよ」
ホムラの考えを見透かすように、ミカルは優しい口調でそう言い聞かせる。そして、それまでの笑顔から一転して、今度はシュンとした表情を浮かべた。
「それに、このままだと僕がダイに怒られちゃうし」
そのひと言が、ホムラの心にチクリと刺さった。そこまで言われてしまうとやらないわけにはいかない。ホムラは渋々ペンに手を伸ばすと、契約書の上の方に自らの名前を書いた。
ペン先が離れた紙には、辛うじて解読はできるものの、バランスが悪く歪みだらけの文字が残された。だが、たとえどれだけ字が汚くて読めなくともさほど問題はない。この契約書の本質は別にあるのだから。
ホムラはペンを置くと、小さな剣山に目を落とした。しかし、すぐに針から目を背けてミカルの方に視線を送る。
「これだけでもなしにしてくれない?」
「今度マスターたちに相談しとくよ」
心優しいミカルなら許してくれのではなかろうかという僅かな希望ももいともたやすく打ち砕かれ、ホムラは渋々再び忌々しい針山へと目を向ける。
息を吸って吐いてを繰り返し、視線を針と指とを右往左往させた。だが、何度見たところで決心がつくことはない。むしろ、その鋭利な針先を見れば見るほど気が進まない。
すると、ミカルは見かねた様子でそっとホムラの手を取った。その手はあまり大きくはないが、柔らかな感触に包まれて自然と安心感を覚えた。ジッとのホムラの目を見つめる曇りのない黄水晶のような瞳がよりそれに拍車をかける。
「ホムラの手、あったかいね」
そんな不意のひと言に、ホムラは思わず頬を赤らめて顔を逸らした。このようにミカルが無自覚に相手をドキッとさせるような言動をするのは珍しいことではないが、いざ面と向かって言われてしまうと動揺を禁じ得ない。
そうこうしていると、ミカルに預けられたホムラの左手は、知らず知らずのうちに完全に緩み切っていた。その隙をミカルが見逃すことはなかった。
次の瞬間、ホムラの指先にチクッとした痛みが走る。視線を下に落とすと、指の腹から血液がジワジワと溢れ出ていた。心臓が動くのに合わせて、溢れ出る血が風船のように徐々に膨らんでいく。やがてその風船が弾け、血が指先全体にじんわりと広がった。
ゆっくりと顔とあげると、グラスを磨くバーテンダーかのように涼しい顔をして血のついた針を拭くミカルが目に入った。それを見てホムラの心の奥底から何かがわなわなと湧き上がってきたが、折角の血が乾いてしまうとまた刺されるハメになるのでグッと堪え、契約書に目を向ける。
そして、さきほど書いた名前のすぐ隣に、痛みの残る指先を紙面に押しつけた。 ゆっくりと指を離すと、指の形になった赤い痕が鈍く光った。
これが、このギルドで契約を結ぶ際のしきたり、"血の契約"だ。あまり行う機会こそないものの、体のどこかを針で刺す必要があるためホムラは大の苦手としているが、これには信頼だとか責任だとか精神的なものだけではなく、他に重要な意味があるそうだ。もっとも、それがなんなのかはギルドマスターと副マスターであるダイの2人しか知らないが。
とはいえ、無事に契約は済んだ。もう当分の間この行為について考えることもないだろう。
「改めて、よろしくねホムラ」
「うん」
つい今しがたこの手によって針で刺されたことなどもう忘れ、ホムラは笑顔でミカルの差し出した手をギュッと握った。
「それじゃあ、早速だけど一応このギルドを案内しておくね」
ミカルはそう言うと握った手をパッと離してカウンターの中から出てくると、ホムラの方をうかがいながらゆっくりとどこかに歩みを進める。ホムラは右手に名残惜しさを感じながら、置いていかれないようにその背中を追いかけた。
入り口のすぐ隣にある階段を上がると、そこには1階の受付などがある大部屋をちょうど4分割したような部屋が左右に並んでいる。ミカルはそのうちの右側にある一番手前の部屋に入っていった。
その部屋に入ると、まず正面の壁に立った大きな黒板が目に入った。黒板とその下の床の所々にチョークの白い粉が付着しており、頻繁に使用されていることがうかがえる。また、部屋の入り口とその壁との間には机と椅子がセットで均等に置かれ、その全てが黒板の方を向いていた。
「確かホムラはここ使ったことなかったよね?」
その問いにホムラは黙ってこくんと頷いた。すると、ミカルは黒板の方までゆっくりと歩いていく。
「ここでは6歳から12歳までの子たちに読み書きと算術、あとは軽く神術の使い方を教えてるんだ」
「ミカルとレーゼが教えてるんだよね」
「ホムラも教えて欲しかったらいつでも歓迎するよ」
「私はいいかな……」
生まれつき物を覚えることが苦手なホムラは、苦笑いしながらスッと後ずさった。ミカルはそれを見て少し残念そうにしてからニコッと笑う。
「それじゃあ、次行こっか」
「次はどこ?」
ホムラがそう尋ねると、ミカルはうーんと唸りながら顎に指を当てて上を見上げる。
「そうだなー、どこがいいかなー……」
すると、先ほどまでとは違って明らかに何かを企んでいる様子でニヤリと笑った。すかさずホムラは嫌な予感を感じ取るが、それが何を意味するのか一生懸命に思考を巡らせる。
「ほら、行くよ」
突如意識の外から届いたそんな声に、ホムラは体を跳ね上がらせた。慌てて周囲に意識を向けると、既にミカルの姿は部屋の外で、ゆっくりと視界から外れていく。
ホムラは正体不明の違和感を抱いたまま、重い足取りでその後を追った。
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